Do you know yourself ? If I know myself, I would run away.
Goethe のことばらしい。
この言葉はひとまずおくとして。
わが町の南側に位置する商店街の坂を下り切る少し手前に、「 ZOCALO ー Modern Spiritual Jewellery 」というジュエリー店ある。
前を通りかかるたびに、ずっと気にかかっていた。
思い切って店内に足を踏み入れたのは、7月18日土曜日のことだった。
そこではじめて知った。
チベスタンスカル(チベットでつくられた髑髏に装飾が施されている法具)が5体もあるということを……。
まず、一体は外からも見えるショーウインドウに飾られている。
二体目は入って左側のガラスケースの上段に鎮座している。
目を正面にすえると、さらに高い棚に二体、これは逆さまに状態である。
そして右側の棚の五体目が、じっとこちらを見ている。
チベスタンスカルに心を奪われている私に気づいて
「高僧や聖人が亡くなると鳥葬にして、しばらくして土に埋めて、ある期間が過ぎたら取り出して磨き、装飾を施すんです。銀細工を主とするジュエリー店の店主でありデザイナーのコレクションです」
店員の男性がやさしい声で語りかけてきた。
「今では、輸入できなくなっています」
5体のうち2体は頭蓋骨の上部が杯になっていて、取り外しが出来るそうだ。
「一応、おちないように止めてありますが」
その説明を聞きながら、織田信長が髑髏の杯でお酒を飲み干した、という話を思い出した。その伝説はあくまでも伝説で、どうやらつくり話のようだ。しかしこの話に、頷けてしまうところに、つくられた信長像がある。
ただ、当時、外国から入ってきたキリスト教文化以外にも、おそらくさまざまな文化や宗教がもたらされただろう、と思わずにはいられない、などど頭の中はグルグルと想いが回っている。
ここにはレプリカだがサーベルタイガーの頭骨なども展示されている。
その姿をデザインした銀製品がいくつも並べられている。
この日に限って、何年にもわたって外から恐る恐る覗き込むだけだったのが、いてもたってもいられずに、中に入る決心ができたのは、「生命大躍進」のガイドブックに書かれていた言葉が後押ししてくれたのだった。
三木成夫先生の比較解剖、形態学の大本となったゲーテの言葉を読んだことがキッカケである。
《ゲーテは1790年、イタリアのベネチアで砂丘を散歩していたとき、子ヒツジの白骨死体を見つけました。そのとき彼の頭に「頭の骨は、背骨と同じものが変形したのではないか」というアイデアが浮かんだ。これがゲーテの「頭蓋骨の椎骨説」》「ゲノム 座談会(212頁~213頁)」より
頭蓋骨も椎骨が変形(メタモルフォーゼ)して今の形になっている、と考えたらしい。
今回の「生命大躍進」脊椎動物のたどった道ーを見ていると、素人目にはその説が真実に見えて来るから不思議だった。
進化は《手持ちの材料の姑息な小改造》で行われ、積み重なると《「洗練された精緻な身体構造」と見えてしまうものができあがることもある》「同書(19頁)」
そこでさっそく Web 検索をかけてみた。
『人の頭蓋骨、大脳形成と表情筋についてーGoethe 説の証明ー白馬明(金沢呼応業大学)』にたどり着いた。
その論文の「4、大脳、頭蓋骨の発達と顔面筋の比較解剖学的考察」の最後に、次のような記述に心がグラッと揺れたのだ。
《サメや爬虫類では、皮膚の直下に三叉神経支配の咬筋がある。この筋も補食筋であり内臓運動神経支配である。脊椎動物が進化して大脳新皮質が増大するにつれて表情筋が顔面だけでなく後頭部にまで広く分布して咬筋を覆い隠してしまう》
三木先生の著書で、サメのエラ呼吸の内臓筋は陸上の動物では「咀嚼・表情・嚥下・発声」の筋肉の変身する、とあったことが、思い出されただけでなく、ことばの意味がようやくつかめてきた。それは、おそらく、「生命大躍進」で目にした数々の化石によるところが大きそうだ。
「三木先生は、実感をもってご著書の文章をしたためられたに違いない」
定年退官前に亡くなったことが惜しまれてならない。
もっともっと生きていただきたかった!
さて、白馬論だが、サメの顔面には表情筋がないく、表情一つ変えることなく大きな口を開けて人を咬み丸呑みするのは恐ろしいことだが、《人は、このような本性を持った咬筋は、表情筋である顔面筋により完全に覆い隠されているそれ故 にこやかに見える表情筋の下には悪魔が潜んでいるかもしれない。詩人で哲学者であり物学者でもあったGoetheは次のように述べている。 Do you know yourself ? If I know myself, I would run away. 》と、結んでいる。
命は循環する。
ことばもまた循環する。
髑髏を装飾し、法具として捧げ祈るラマ教に思いを馳せてみる。
高僧の、聖人の、徳を譲り受けるために祈り、酒を飲干す。
人とは罪深く、危うい存在であるから、慈悲を希求する祈りを行う証に、様々な造形が生み出されていったのだろう。
その一つがチベスタンスカルなのだろうか。
長い長い時間の末、脊椎動物がたどり着いた一つの思いがけない漂着の地点が、ここであったとは……。
東京、杉並、高円寺、南、3-58-28、ZOCALO。
Goethe のことばらしい。
この言葉はひとまずおくとして。
わが町の南側に位置する商店街の坂を下り切る少し手前に、「 ZOCALO ー Modern Spiritual Jewellery 」というジュエリー店ある。
前を通りかかるたびに、ずっと気にかかっていた。
思い切って店内に足を踏み入れたのは、7月18日土曜日のことだった。
そこではじめて知った。
チベスタンスカル(チベットでつくられた髑髏に装飾が施されている法具)が5体もあるということを……。
まず、一体は外からも見えるショーウインドウに飾られている。
二体目は入って左側のガラスケースの上段に鎮座している。
目を正面にすえると、さらに高い棚に二体、これは逆さまに状態である。
そして右側の棚の五体目が、じっとこちらを見ている。
チベスタンスカルに心を奪われている私に気づいて
「高僧や聖人が亡くなると鳥葬にして、しばらくして土に埋めて、ある期間が過ぎたら取り出して磨き、装飾を施すんです。銀細工を主とするジュエリー店の店主でありデザイナーのコレクションです」
店員の男性がやさしい声で語りかけてきた。
「今では、輸入できなくなっています」
5体のうち2体は頭蓋骨の上部が杯になっていて、取り外しが出来るそうだ。
「一応、おちないように止めてありますが」
その説明を聞きながら、織田信長が髑髏の杯でお酒を飲み干した、という話を思い出した。その伝説はあくまでも伝説で、どうやらつくり話のようだ。しかしこの話に、頷けてしまうところに、つくられた信長像がある。
ただ、当時、外国から入ってきたキリスト教文化以外にも、おそらくさまざまな文化や宗教がもたらされただろう、と思わずにはいられない、などど頭の中はグルグルと想いが回っている。
ここにはレプリカだがサーベルタイガーの頭骨なども展示されている。
その姿をデザインした銀製品がいくつも並べられている。
この日に限って、何年にもわたって外から恐る恐る覗き込むだけだったのが、いてもたってもいられずに、中に入る決心ができたのは、「生命大躍進」のガイドブックに書かれていた言葉が後押ししてくれたのだった。
三木成夫先生の比較解剖、形態学の大本となったゲーテの言葉を読んだことがキッカケである。
《ゲーテは1790年、イタリアのベネチアで砂丘を散歩していたとき、子ヒツジの白骨死体を見つけました。そのとき彼の頭に「頭の骨は、背骨と同じものが変形したのではないか」というアイデアが浮かんだ。これがゲーテの「頭蓋骨の椎骨説」》「ゲノム 座談会(212頁~213頁)」より
頭蓋骨も椎骨が変形(メタモルフォーゼ)して今の形になっている、と考えたらしい。
今回の「生命大躍進」脊椎動物のたどった道ーを見ていると、素人目にはその説が真実に見えて来るから不思議だった。
進化は《手持ちの材料の姑息な小改造》で行われ、積み重なると《「洗練された精緻な身体構造」と見えてしまうものができあがることもある》「同書(19頁)」
そこでさっそく Web 検索をかけてみた。
『人の頭蓋骨、大脳形成と表情筋についてーGoethe 説の証明ー白馬明(金沢呼応業大学)』にたどり着いた。
その論文の「4、大脳、頭蓋骨の発達と顔面筋の比較解剖学的考察」の最後に、次のような記述に心がグラッと揺れたのだ。
《サメや爬虫類では、皮膚の直下に三叉神経支配の咬筋がある。この筋も補食筋であり内臓運動神経支配である。脊椎動物が進化して大脳新皮質が増大するにつれて表情筋が顔面だけでなく後頭部にまで広く分布して咬筋を覆い隠してしまう》
三木先生の著書で、サメのエラ呼吸の内臓筋は陸上の動物では「咀嚼・表情・嚥下・発声」の筋肉の変身する、とあったことが、思い出されただけでなく、ことばの意味がようやくつかめてきた。それは、おそらく、「生命大躍進」で目にした数々の化石によるところが大きそうだ。
「三木先生は、実感をもってご著書の文章をしたためられたに違いない」
定年退官前に亡くなったことが惜しまれてならない。
もっともっと生きていただきたかった!
さて、白馬論だが、サメの顔面には表情筋がないく、表情一つ変えることなく大きな口を開けて人を咬み丸呑みするのは恐ろしいことだが、《人は、このような本性を持った咬筋は、表情筋である顔面筋により完全に覆い隠されているそれ故 にこやかに見える表情筋の下には悪魔が潜んでいるかもしれない。詩人で哲学者であり物学者でもあったGoetheは次のように述べている。 Do you know yourself ? If I know myself, I would run away. 》と、結んでいる。
命は循環する。
ことばもまた循環する。
髑髏を装飾し、法具として捧げ祈るラマ教に思いを馳せてみる。
高僧の、聖人の、徳を譲り受けるために祈り、酒を飲干す。
人とは罪深く、危うい存在であるから、慈悲を希求する祈りを行う証に、様々な造形が生み出されていったのだろう。
その一つがチベスタンスカルなのだろうか。
長い長い時間の末、脊椎動物がたどり着いた一つの思いがけない漂着の地点が、ここであったとは……。
東京、杉並、高円寺、南、3-58-28、ZOCALO。