“祭りの後”、というのは、シーンと静まり返って寂しさがただようもの、と相場は決まっている。
ところが、今回の「石を愛でる会」は、まったくちがう。
会に出た人、出られなかった人たちが、SNS・Facebook上でにぎやかに、そして活発なやり取りをしている。
当日は、もちろんだった。
FBの写真を見ながらコメント読みながら、”あの活気はなんだった”のか、と連日のこと振り返っている。
皆さんのウキウキ感の源を探っている。
今、言葉にするとあの日の出来事が単なる「行事」で終わってしまいそう。
行事の場合は、「祭りの後」で、ちょっと寂しいもの。
実は、寂しさなんてない。
皆さん、あとからも楽しくて、楽しくて、しかたがないようだ。
「これからの野口体操をどうしたらいいのか」とずっと悩んでいた。
2014年5月5日を境に、その問いはどこかへすっ飛んでしまった。
わかったような、わからないような言い方だけれど、“日々、ちゃんと生きていれば「何事も自然にそうなる」”ということ!
活気が、アニマが、そこにあれば、それだけでいいとは言えないが、まず、それがなければはじまらない、ことを知った。
あの場には、野口三千三先生と井上修美さんが鎮座し、お二人を知っている人も知らない人も、分け隔てなく石と人を双方向で結びつけてくれた。
そして、半世紀以上、石と苦楽を共に生きていらした神保さんの人柄とレクチャーと現物の石、クリーングをする体験とラベリング。
「なんで体操に石なの?」
そうした問いは、私も受ける。それに対して、理路整然とは説明はできない。
しかし、である。
会場の壁に展示した、体操教室や先生の自宅の写真たちが、体操と石を結びつけてくれていた。
「理屈じゃないんだ」
皆そう思った。
「地球でつながっているんだ」そんな理屈もいらない。
というわけで、気づくことはいろいろありますが、まとまった文章にはなりません。
「石を愛でる会」報告の第二弾。
《あとの祭りのにぎやかさ》でした。
ところが、今回の「石を愛でる会」は、まったくちがう。
会に出た人、出られなかった人たちが、SNS・Facebook上でにぎやかに、そして活発なやり取りをしている。
当日は、もちろんだった。
FBの写真を見ながらコメント読みながら、”あの活気はなんだった”のか、と連日のこと振り返っている。
皆さんのウキウキ感の源を探っている。
今、言葉にするとあの日の出来事が単なる「行事」で終わってしまいそう。
行事の場合は、「祭りの後」で、ちょっと寂しいもの。
実は、寂しさなんてない。
皆さん、あとからも楽しくて、楽しくて、しかたがないようだ。
「これからの野口体操をどうしたらいいのか」とずっと悩んでいた。
2014年5月5日を境に、その問いはどこかへすっ飛んでしまった。
わかったような、わからないような言い方だけれど、“日々、ちゃんと生きていれば「何事も自然にそうなる」”ということ!
活気が、アニマが、そこにあれば、それだけでいいとは言えないが、まず、それがなければはじまらない、ことを知った。
あの場には、野口三千三先生と井上修美さんが鎮座し、お二人を知っている人も知らない人も、分け隔てなく石と人を双方向で結びつけてくれた。
そして、半世紀以上、石と苦楽を共に生きていらした神保さんの人柄とレクチャーと現物の石、クリーングをする体験とラベリング。
「なんで体操に石なの?」
そうした問いは、私も受ける。それに対して、理路整然とは説明はできない。
しかし、である。
会場の壁に展示した、体操教室や先生の自宅の写真たちが、体操と石を結びつけてくれていた。
「理屈じゃないんだ」
皆そう思った。
「地球でつながっているんだ」そんな理屈もいらない。
というわけで、気づくことはいろいろありますが、まとまった文章にはなりません。
「石を愛でる会」報告の第二弾。
《あとの祭りのにぎやかさ》でした。