さぁ、何から書き出そう。
あれこれあって、焦点をしぼらないといけない、と昨日から考えているのだが。
書き出さないことには始まらない。
この躊躇いはどこからくるのか。
畏れを感じつつ、怖れずに書き出してみよう……か。(ふぅー)。
*******
一昨日、11月6日(水)、2013年度 国際交流基金賞 受賞記念講演会に出かけた。
受賞者、山海塾主宰・振付家・演出家・舞踏家の天児牛大氏。
演劇評論家の渡辺保氏との対談であった。
お題は「日本の舞踊から」。
僅かな知識でしかないが、すり足、白塗りの舞踏は、海外、とくにフランスはパリで好評を博し、日本に逆輸入の形で一部の熱狂的な支持者を得て、ようやく認知されてきただろうか。
天児氏は、1980年に渡仏し、一年間、縁が縁を繋ぐ形で滞在し、その後の活動の基礎を築かれたことが対談で明らかにされていった。
さて、対談に入る前に二つの作品の抜粋が紹介された。
ひとつは「UMUSUNA」もうもうひとつは「TOBARI」である。
ご自身の口から語られる話を聞くと、「UMUSUNA」は人が自然と関わる処で、「TOBARI」は星の座標にみたてた装置のもとあらゆる現象、とりわけ自然現象の“はざかい”をイメージしているそうだ。
話は前後して、渡仏当時のこと。
異国での活動のなかで、『「違い」をシャワーのようにあびた』という第一声である。
そこで気づいたことは、「文化とは違いである」と。
一方で、別の出会いが創造の基礎を形づくっていく過程についても語られた。
一言でまとめると「プリミティブ」。違いに対して“普遍”につながる道といってもよい。
実際に、ラスコーの壁画、巨石文化、古代造形、土器等々に触れることで、人間が共通に持っている”造形衝動”に加えて“自然との対話”のなかに、「差異」と「普遍」を発見していった、という。
非連続な個人的感情の表出、そこからユニバース・宇宙的な時間と空間、別の言い方をすれば「永遠性」「連続性」に包まれる舞踊との出会いがあった。そのテーマを、欧州滞在をとおしてもらったのだという。
つねに「際(みぎわ)」にいる自己が「自然との対話」の中に息づくその後の作品群につながっていく。
他には、「土方巽」「大野一雄」「麿赤兒」、人とであう話。
他には、1960年代後半から70年代初頭の演劇やモダンダンス、言葉と身体言語のことについて。
最後に、渡辺氏から「老いの芸術の発見」について問いかけられた。
ヨーロッパの身体が目に見えるもの(形)を志向するのに対して、日本は身体に見えないものの声を聞く。つまり空間・時間の交流のなかで“振りが動く・振動”を求めていく傾向があるという話だった。
これは目から鱗だった!百歳になって踊ることの意味と日本の伝統芸能の長寿の意味が提示された。
さて、この世界に疎い私としては、なぜ「白塗り」か。なぜ「スカートのような衣装」かについて参加者からの問いに明確に答える天児氏のことばに、なるほどとうなづかせてもらった。
「白塗り」はもともと日本の芸能の中に存在したことであったが、氏にとっては(舞踏にとっては)、日常の個性を非日常に移し、日常を消すことでもう一つの異空間へとパーソナリティーーを移し替えていく働きがある。 もちろん舞台上の陰影を美しく反映できる効果も計算されている。
もう一つの問い。「スカートのような衣装」は、古代的・女性的・インセッックスな表徴として布を巻くというプリミティブな表象に即していることに意味がある、という。
短い時間であったけれど、天児舞踏の入門編を聞かせていただいたことは幸運だった。
そもそもこの講演会に出席できないが、ぜひ聞いて欲しいと知らせてくれた新井さんに、この場を借りて報告させていただくことにしました。
ここまで、メモをたよりに記憶を辿っているので、正確さに欠けるきらいはあります。そのことはひらにご容赦!願いましょう。
ところで、はじめて舞踏の公演を見たのは「とりふね舞踏舎」の作品だった。
このとき感じたことは、“能の始まりはこのような在り方をしていたのではなかったのか”ということだった。
そのことだけははっきりと記憶していて、気にはかかっていた。といってもその後、積極的に舞台を見にいくことはなかった。何年も過ぎてしまった。
先月のこと「降海の夢」若手舞踏家5人の作品を見せてもらったのが、再びの世阿弥である。
その程度の関わりでしかなく、山海塾の作品もYouTubeで見ていっただけなのに、書かずにはいられないのは何故なのか。自分でもその理由はよくわからない。書きたい衝動に突き動かされていることだけは確かだ。
並行して「能」に関する本を読みはじめた。舞踏に導かれて朝日カルチャーの「野口体操講座」に通いはじめた女性のすすめで『華の碑文』杉本苑子を読んだことがキッカケとなった。これは名著であるだけでなく、『世阿弥能楽論集』小西甚一編訳を読みすすむための、理解の補完以上の力となってくれている逸品である。
そこから”舞踏は現代に生まれた能”となりうる可能性がある、という道筋が見えるのである。
かつて昭和30年代には、今でも残っている洋楽・邦楽という呼び名に呼応して、「洋舞」と「日舞」という分け方が厳然とあった。そして、双方に「創作舞踊」というジャンルがあって、洋舞界に江口隆哉が、日舞界に藤蔭静枝が存在した。一方はドイツのノイエ・タンツが基礎にあり、日舞には歌舞伎につながるをどりが連綿と流れているなかでの創作舞踊であった。
因みに、初代藤蔭静枝は、私の日舞の大師匠でお家元であったことから、「創作舞踊」という言葉は物心ついたころ、日常的に聞く機会があって当時からすでに馴染みがあった。思えば、栄養たっぷりな豊かな土壌の中での創作は、それなりの難しさがあったのだろう、と今になれば想像もつくようになった。
しかし、舞踏はそうした伝統を捨て、価値観を破壊し、自らをカオスに陥れ、無からの創造の道を選びとった。荒れ地から土を返し、掘り起こされた土のなかから岩石や鉱物、連綿と過去へと続く生物のおもかげ、人工の遺物、等々を陽に晒したところまで、ようやくたどり着いたのではなかろうか。
つまり、土壌はこれからつくられていく。それもあらゆる実験を重ねてつくられていく段階に、たどりついたのではないだろうか、という印象を11月6日の対談でもつことができた、と思っている。
それは昭和30年代の「創作舞踊」とは、まったくもって異質の空間・時間を手に入れたということだ。
話を6日の晩に戻そう。
講演が終わって行われたレセプションの場で、天児氏と短い時間だったが言葉を交わすことができた。
1960年代末から70年代にかけて、3年間、毎週一回のペースで野口体操の教室に通っておられたという。ちょうど『原初生命体としての人間』が草稿から原稿になり、書籍として生まれ出る前の時期に当たっている。野口三千三との出会いは「卵が立つ」ことと同義語であったようだ。
そこで私が確信を持ったことは、当時の芸大に三木成夫、小泉文夫、野口三千三、その“芸大三奇人”と言われた方々がいて、おおくの芸術家に思想的・哲学的な礎として影響を与えたこと。現代文化の底流となって流れている、ということだった。
まだまだまとまらないが、ひとまずここまで備忘録として記しておきたい。
これからも続くだろう「舞踏巡礼」は、野口体操の再考である以上に、自分にとって深い意味をもつことであるとの予感が予感の閾値をすでに超えつつあるようだ。
誤解、偏見、独断をおそれず書かせてもらいました。
あれこれあって、焦点をしぼらないといけない、と昨日から考えているのだが。
書き出さないことには始まらない。
この躊躇いはどこからくるのか。
畏れを感じつつ、怖れずに書き出してみよう……か。(ふぅー)。
*******
一昨日、11月6日(水)、2013年度 国際交流基金賞 受賞記念講演会に出かけた。
受賞者、山海塾主宰・振付家・演出家・舞踏家の天児牛大氏。
演劇評論家の渡辺保氏との対談であった。
お題は「日本の舞踊から」。
僅かな知識でしかないが、すり足、白塗りの舞踏は、海外、とくにフランスはパリで好評を博し、日本に逆輸入の形で一部の熱狂的な支持者を得て、ようやく認知されてきただろうか。
天児氏は、1980年に渡仏し、一年間、縁が縁を繋ぐ形で滞在し、その後の活動の基礎を築かれたことが対談で明らかにされていった。
さて、対談に入る前に二つの作品の抜粋が紹介された。
ひとつは「UMUSUNA」もうもうひとつは「TOBARI」である。
ご自身の口から語られる話を聞くと、「UMUSUNA」は人が自然と関わる処で、「TOBARI」は星の座標にみたてた装置のもとあらゆる現象、とりわけ自然現象の“はざかい”をイメージしているそうだ。
話は前後して、渡仏当時のこと。
異国での活動のなかで、『「違い」をシャワーのようにあびた』という第一声である。
そこで気づいたことは、「文化とは違いである」と。
一方で、別の出会いが創造の基礎を形づくっていく過程についても語られた。
一言でまとめると「プリミティブ」。違いに対して“普遍”につながる道といってもよい。
実際に、ラスコーの壁画、巨石文化、古代造形、土器等々に触れることで、人間が共通に持っている”造形衝動”に加えて“自然との対話”のなかに、「差異」と「普遍」を発見していった、という。
非連続な個人的感情の表出、そこからユニバース・宇宙的な時間と空間、別の言い方をすれば「永遠性」「連続性」に包まれる舞踊との出会いがあった。そのテーマを、欧州滞在をとおしてもらったのだという。
つねに「際(みぎわ)」にいる自己が「自然との対話」の中に息づくその後の作品群につながっていく。
他には、「土方巽」「大野一雄」「麿赤兒」、人とであう話。
他には、1960年代後半から70年代初頭の演劇やモダンダンス、言葉と身体言語のことについて。
最後に、渡辺氏から「老いの芸術の発見」について問いかけられた。
ヨーロッパの身体が目に見えるもの(形)を志向するのに対して、日本は身体に見えないものの声を聞く。つまり空間・時間の交流のなかで“振りが動く・振動”を求めていく傾向があるという話だった。
これは目から鱗だった!百歳になって踊ることの意味と日本の伝統芸能の長寿の意味が提示された。
さて、この世界に疎い私としては、なぜ「白塗り」か。なぜ「スカートのような衣装」かについて参加者からの問いに明確に答える天児氏のことばに、なるほどとうなづかせてもらった。
「白塗り」はもともと日本の芸能の中に存在したことであったが、氏にとっては(舞踏にとっては)、日常の個性を非日常に移し、日常を消すことでもう一つの異空間へとパーソナリティーーを移し替えていく働きがある。 もちろん舞台上の陰影を美しく反映できる効果も計算されている。
もう一つの問い。「スカートのような衣装」は、古代的・女性的・インセッックスな表徴として布を巻くというプリミティブな表象に即していることに意味がある、という。
短い時間であったけれど、天児舞踏の入門編を聞かせていただいたことは幸運だった。
そもそもこの講演会に出席できないが、ぜひ聞いて欲しいと知らせてくれた新井さんに、この場を借りて報告させていただくことにしました。
ここまで、メモをたよりに記憶を辿っているので、正確さに欠けるきらいはあります。そのことはひらにご容赦!願いましょう。
ところで、はじめて舞踏の公演を見たのは「とりふね舞踏舎」の作品だった。
このとき感じたことは、“能の始まりはこのような在り方をしていたのではなかったのか”ということだった。
そのことだけははっきりと記憶していて、気にはかかっていた。といってもその後、積極的に舞台を見にいくことはなかった。何年も過ぎてしまった。
先月のこと「降海の夢」若手舞踏家5人の作品を見せてもらったのが、再びの世阿弥である。
その程度の関わりでしかなく、山海塾の作品もYouTubeで見ていっただけなのに、書かずにはいられないのは何故なのか。自分でもその理由はよくわからない。書きたい衝動に突き動かされていることだけは確かだ。
並行して「能」に関する本を読みはじめた。舞踏に導かれて朝日カルチャーの「野口体操講座」に通いはじめた女性のすすめで『華の碑文』杉本苑子を読んだことがキッカケとなった。これは名著であるだけでなく、『世阿弥能楽論集』小西甚一編訳を読みすすむための、理解の補完以上の力となってくれている逸品である。
そこから”舞踏は現代に生まれた能”となりうる可能性がある、という道筋が見えるのである。
かつて昭和30年代には、今でも残っている洋楽・邦楽という呼び名に呼応して、「洋舞」と「日舞」という分け方が厳然とあった。そして、双方に「創作舞踊」というジャンルがあって、洋舞界に江口隆哉が、日舞界に藤蔭静枝が存在した。一方はドイツのノイエ・タンツが基礎にあり、日舞には歌舞伎につながるをどりが連綿と流れているなかでの創作舞踊であった。
因みに、初代藤蔭静枝は、私の日舞の大師匠でお家元であったことから、「創作舞踊」という言葉は物心ついたころ、日常的に聞く機会があって当時からすでに馴染みがあった。思えば、栄養たっぷりな豊かな土壌の中での創作は、それなりの難しさがあったのだろう、と今になれば想像もつくようになった。
しかし、舞踏はそうした伝統を捨て、価値観を破壊し、自らをカオスに陥れ、無からの創造の道を選びとった。荒れ地から土を返し、掘り起こされた土のなかから岩石や鉱物、連綿と過去へと続く生物のおもかげ、人工の遺物、等々を陽に晒したところまで、ようやくたどり着いたのではなかろうか。
つまり、土壌はこれからつくられていく。それもあらゆる実験を重ねてつくられていく段階に、たどりついたのではないだろうか、という印象を11月6日の対談でもつことができた、と思っている。
それは昭和30年代の「創作舞踊」とは、まったくもって異質の空間・時間を手に入れたということだ。
話を6日の晩に戻そう。
講演が終わって行われたレセプションの場で、天児氏と短い時間だったが言葉を交わすことができた。
1960年代末から70年代にかけて、3年間、毎週一回のペースで野口体操の教室に通っておられたという。ちょうど『原初生命体としての人間』が草稿から原稿になり、書籍として生まれ出る前の時期に当たっている。野口三千三との出会いは「卵が立つ」ことと同義語であったようだ。
そこで私が確信を持ったことは、当時の芸大に三木成夫、小泉文夫、野口三千三、その“芸大三奇人”と言われた方々がいて、おおくの芸術家に思想的・哲学的な礎として影響を与えたこと。現代文化の底流となって流れている、ということだった。
まだまだまとまらないが、ひとまずここまで備忘録として記しておきたい。
これからも続くだろう「舞踏巡礼」は、野口体操の再考である以上に、自分にとって深い意味をもつことであるとの予感が予感の閾値をすでに超えつつあるようだ。
誤解、偏見、独断をおそれず書かせてもらいました。