羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

『日本の舞踊』

2013年11月16日 11時20分19秒 | Weblog
 先日、国際交流基金賞受賞記念講演会で、天児牛大氏が対談を行った渡辺保氏の『日本の舞踊』岩波新書175アンコール復刊を推薦しておられた。
 評論家が批評精神をもって書いたのではなく、こよなく日本の芸能と舞踊を愛で、熱愛していることがひしひしと伝わる内容の著書だった。
 二部構成になっていて、第一部では「舞踊とはなにか」の定義からはじめて、舞踊の歴史を芸能史の一つのジャンルとしてわかりやすく解き明かしている。
 神話のなかの舞踊、中世の舞芸人たち、能の舞、歌舞伎の舞踊、そして明治以降の舞踊、といった分け方で、日本の舞踊の豊かさが伝わってくる。

 その第一部をふまえて第二部では、武原はん、七代目三津五郎、歌右衛門と梅幸、藤間勘十郎、井上八千代、友枝喜久夫、七人の名人の特徴を描き出しながら、「身体の声をきく」日本の舞踊の伝統の根源を解き明かしてくれる内容だった。

 見えないものをみる、つまり「身体の声をきく」としかいいようのない舞踊の有り様を知らしめてくれる。それも温かな血の通った文章によってであった。
「振の言語」目でみることができる。「肚の言語」時に目で見えないもの、日常の視覚ではみることができないもの。「舞い手の言語」本来見えないものでありながら、ついに目に見える身体に行き着く。
 このどれもが揃っているのが日本の舞踊の特徴である。舞踊家によって、三つの言語のうち、どこかが一つが際立つことがあっても、それはその人の芸の持ち味であることが説得力をもって語られていく。

 出来れば本を読む前に、能や歌舞伎、舞(仕舞)や舞踊、日本舞踊の舞台や映像を、いくつかでも見ていると本の理解も深まるのだが、現代の若者にとってはなかなかに難しい条件となるかもしれない。
 本を読んでから、観劇に出かけるのもよいとは思うが、微妙である。

 さて、天児氏がなぜこの本を絶賛し、読むことをすすめたのか。
 おそらく歴史、社会とのかかわり、日本の舞踊の普遍性、といった事柄もさることながら、著者が舞踊の内側に潜めている“舞踊の魂”を愛情を持って描き出しているその源を読み取ることで、創造の女神に出会うことを可能にしてくれるからだ、と勝手に想像している。たとえジャンルが違っても、底流に流れる舞踊の衝動の在処を辿る道筋に灯りを灯し、導いてもらえるからに違いない。
 西洋にはない日本独特の心身一如の舞台表現を知的にも情念においても味わうことによって、自らの舞踏に活かすことができる「玉」を手に出来ると読んだ。
 舞踏家が避けては通れない“老い”と向かい合う時に、豊かで多様な表現世界を慈しんだ日本の舞踊の素晴らしさを身につけることは、舞踊家として振付家として必須のテーマとなっていくだろう、と確信に近い思いを得ることができた。

 本を読み進めば進むほどに、能の舞、歌舞伎の舞踊、日本舞踊のまま伝承しなければならない、ということではなく、まったく別の次元から生まれる舞踊や舞踏であっても、この豊かな源泉を無視するのは、なんともはや勿体ないことこの上ない、という思いに至った。

 あまたの舞台をみつづけ、名優、名舞踊家と接することで磨かれた感性そのものが宝ものと思える著者。
 よりそひ、いたわり、いつくしみ、はぐくみ、……、あたたかな情感と詩情あふれる文章で、日本の文化の素晴らしさを伝える名著である。
 舞踊に限らず、老いて如何に生きるのか、といった生き方の指針までも与えてくれるような気がする。
「身体の声をきく」と著者は書かれているが、本来は「貞く」という文字がいちばんふさわしいと思えるが、この文字の訓みは一般的な用法でないのが残念至極!
 
 そういえば野口三千三が「使命感・悲壮感のない遺言としての授業」として愛情に満ちた授業を行うにあたって、人の目に触れないところで、いかに努め、いかに工夫し、いかに身を削って過ごしたか、“晩年の日々”を思い起こさせてもらった。

 はじめて野口体操に出会った時の先生の年齢に私も達した今年、この本に出会えたことは福音かもしれない。
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