羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

バビロンの流れのほとりにて……そして、みそ汁の香り

2012年11月22日 08時23分38秒 | Weblog
 月曜日、十一月十九日、午前中に明大の授業を1コマ終わって、そのままタクシーで上野まで直行。
 午後、東京藝術大学音楽学部附属高校で、野口体操の講演を行った。
 感性豊かな高校生120名ほど。ほかに主催のPTA・響和会の方々、先生方も混じって、90分の時間は、あっという間に過ぎていった。有意義な時間を過ごさせていただいた。

 で、高校は寛永寺の正門と向かい合っていることから、境内を通り抜けて、野口三千三先生のお墓参りができた。
 九月に行った藝大での集中講義の際は、門前から手を合わせただけだったので、ずっと気にかかっていた。
『野口体操 マッサージから始める』が、ちくま文庫から無事に出版されたこと、文部科学省委託・日本レクリエーション協会主催の『ニューエルダーのための「人生を愉しむカラダ学」』大阪と東京のパネルディスカッションのこと、その他、夏から秋にかけてのご報告をすることができた。

 来年の三月で、没後、十五年。
 こうして空間としての問題だけでなく、寛永寺と地続きにある東京藝大と藝高までお呼ばれるするとは、1998年(平成十年)の春には、予想すらできないことだった。
 東京スカイツリーを背にした墓に手を合わせ、おそらく見守ってくださっていた野口先生と、縁の皆さんへ、感謝の思いをつぶやいた。
 参る人も清掃する人も誰もいない静かな墓地に佇んで、巡る思いはさまざまだった。
 ほっとするという事はこういう心情をいうのだ、としみじみ来し方を振り返えることができた。
「おかげさまです」
 
 突然のこと、若き日に読んだ書名が脳裏をかすめた。
 父親の墓から出発しパリで客死した森有正が奏でたパイプオルガンの音が響いてきた。
 確かあれはバッハのトッカータとフーガだったかしら。
 十一月を通り越して、師走の寒気が流れ込んだ日。
 夕暮れがせまる鴬谷駅から山手線に乗り込んだのは、四時頃だろうか。
 
 五時少し前に帰宅して、コートも脱がずに蔵に入り、本を取り出した。
 そのまま床に座り込んで、慌てる手でページを捲る。目はひたすらに活字を追う。
《考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三歳の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石には「M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壺を入れるようになっている。中略。僕は墓の土をみながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いてきた。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。後略。》
 『バビロンの流れのほとりにて』から「パリにて 十月八日」

 必死で生きた十五年。
 二十代には憧れで読んだ一文が、ジーンと胸の奥に染み込んで来る。齢六十三。
 あと、十五年は残されていないかもしれない。しかし、まだ時間はありそうだ。
 これからどこに向かおうとしているのだろう。どんな途上にあるのだろう。かつて予想がつかなかったように、今も先のことはわからない。
「それでいい」と、言葉を胸にしまい込んで蔵を出ると、いつもと変わらない日常が、あっという間に戻ってきた。 
 夕餉の支度をする。溶かし込んだ味噌の香りが、昼食を殆ど食べていなかった臓腑に、鮮やかな空腹感をもたらしてくれた。
コメント
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