羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

切りとれ……

2011年01月22日 08時52分03秒 | Weblog
 内心、実は、本当のところ、不安がよぎっていた。
 それは先週の土曜日、日もとっぷりと暮れた時刻。対談が始まる少し前の私の心のざわめきだった。
 ご一緒したK氏には悟られまい、と、平静さを装っていたのだ。

 対談が始まった。
 なんとも気の抜けた態度。「これって大丈夫か。やっぱりがっかりしたくない不安が的中したのか。いやいや待てよ。待ってみよう」
 ゲストの磯崎憲一郎氏の方が、立場を逆転させて、芥川賞作家というよりつとめを持つ社会人のセンスで、なんとか対談を印象悪いものにしたくない努力を払われていた。

 しかし、中盤から目覚まし付き時計のアラームがホストの中で鳴った。
 たちあがって、真の文芸批評に、真の純文学についての持論を少しずつ展開し始めた。
 三十分ほどオーバーしてその対談は終わった。
 答えたくないような質問にも、適度な悪さをしながら、やり過ごしていた。そのやり過ごし方が、何とも可愛いのだ。
 私も年をとったものだ、と嘆息しつ苦笑しつつ。ないまぜな感情を久しぶりに味わった夜!
 この俊材、逸材、俊傑、年寄りを熱くさせる若者に接して、可愛い孫を応援するおばあちゃん気分である。悪態をつこうが、だだをこねようが、傍若無人に他者をけなそうが(そんなことはしていませんでしたが、仮にそうだとしても)、カワユイのである。

 きっとスタイルを持っているからかもしれない。
 すでに佐々木中というスタイルを身にまとっているからかもしれない。
 それは文体を裏切らなかった。

 これまでにこれほど快活な哲学者がいただろうか。これまでにこれほど自由な理論宗教学者がいただろうか。二分法、二元論、を超えて超空の彼方を見据えて論を展開する文芸評論家が、かつていただろうか。
 論ずるのもよい。それもよいが、彼には小説で羽ばたくのもよいかもしれない、と悪魔のささやきが聞こえる。
 ぜひ、芥川賞を狙ってちょうだい、よ、って。

『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』(河出書房新社)は、ヨーロッパ文化を内に取り込み、小気味よく闊歩しながら、切っていく先にまだわからないながらも可能性が見えてくる。
 彼が十代から二十代を生きた日本の1980年~90年代は、言葉が具体としてそこに在る身体を求めた初めてのポスト近代だったかもしれない。
 その開花期にこの才能が芽生え、そして、今、この本によって切りとられた世界観が育っていくだろうことを祈っている。たぶん、そんな予感が私をして甘~いおばあさん気分を、身体のうちにほのぼのと照らしてくれたに違いない。一週間はあっという間に過ぎた。そして『夜戦と永遠』を少しずつ読む朝の快感を得ている。
 言葉とは、世界を切りとる残酷な刃物だ。しかし、切れ味がよければ、切りとられたものは、新鮮な切り口に鮮血を少しだけ残す。その血は、決して命を奪うほどのものではなく、むしろ人の精神を受精させる命の血となるだろう。
 
 最後に、処女を奪う者は、彼女に本当の快感を教えなくてはいけない、と中さんにいっておきたい。文学という名の裸体はあなたの「中」にあるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする