羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

発想を生かすも殺すも「ボロメオの結び目」と知った。

2011年01月15日 11時49分24秒 | Weblog
 Macと密につきあった2011年の年始。
 発想をどのように現実の形にし、製品としてまとめあげていくのか。そのエネルギーを指先から体感している。
 さらに出来上がった製品から、フィードバックされた応用発想を他のものに転換していく次につなげる「連想(発)力」にワクワクする楽しさをもらった。

 十数年ぶりの「再びのMacは、浦島太郎状態だわよ!」と、おどされていた。確かに当時よりも私の髪には白いものが増えた。しかし、ことコンピューターに関しては、年齢を感じない。触れることが、試すことが、面白くて仕方がない。iPadという子機までついてきている。メールに関しては、手元に置きながら、タッチパネルの大きいキーボード(?)が使いやすく、コンピューターはいらなくなっている。そばで見ている86歳の母も「やりやすそうね。触れて軽く叩けばいんだから」と仰せになる。
 さすがにブログは、iMacの方が書きやすいことはいっておかなくちゃ、いけませんわ。

 他にも今までやってこなかったことにも、追々、なじんでみたいと思うようにまで、心が進化した。これってすごいことだよ。
 浮かんだ発想をいかに現実界に引き下ろして、形と動きをどのように「もの(実在)としての重さを与える」のか。これが重要だ。
 朝、読んでいた本の曲解をしてみよう。
「ボロメオの結び目」
 象徴界(S)、想像界(I)、現実界(R)の三つの輪が描かれた図である。象徴界と想像界の間に「意味」がある。想像界と現実界の間に「大他者の享楽」がある。現実界と象徴界の間に「ファルスの享楽」がある。
 これらの象徴界、想像界、現実界の三つの輪が、一つでも切り離せば、すべてが分離するその輪。三は三でも、東洋的な『三すくみ』の発想ではない。ここではそれぞれが絡まって、三つの輪の中心にあって、すべてが重なる場所に、小文字のaで示される「対象a」がある。

 繰り返すがぐ~と矯めて曲解してみる。
 かすかに浮かんだ発想を現実のものにしていく、少し輪郭を得た発想を現実の動きにしていく、かなり明確になった発想を他者との関係のなかで探っていく。
 そのことの解読法をMacに触りながら、実感していく楽しさを得ている、といいたい。まだ言葉にはならない、が、私の中では何かが蠢きはじめている、とだけいっておきたい。
 
『理解とは誤解のこと。意見とは偏見のこと。判断とは独断のこと。』(三千三)。お許しを!
コメント
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