はじめて野口流ヨガの逆立ちが上手くいったのが、いつの頃だったか、いくら記憶を辿っても思い出せない。
それからしばらくしたある夏の日だった。
自宅の座敷で立ったとき、頭の一点で重さを受けている実感を得たことがあった。
それもいつごろだったか、思い出せない。
しかし、そのときの感覚は鮮明に残っている。
重さを受けている点にちかい実際は面だけれど、そこにスーッとつながり通るものがあった。
頭の中心は痛くも重くもない。
ゆらゆらとバランスの小さな揺れが感じられる。
その揺れは風が吹いたら倒れるくらいに、微妙なバランスで立っている実感だった。
そして、2009年に入って、少々気恥ずかしい言い方だが‘新境地’といいっても差し支えない道筋がつかめてきた。
それは他の人を立たせてしまう道筋なのだ。
初めての人でも軽々立てるように導ける‘道筋’のつけ方だ。
方法と言うのかもしれない。しかし、単なる方法ではない。
からだから時々刻々生まれる意識の流れなのだ。
意識過剰の意識とは違う。
イメージとも違う。
ある状況がからだの内側に生まれるように動きを重ねていく。
その状況のなかで何かが熟したら、そこで逆立ちに入っていく。
すると結果として立ってしまう、という境地。
これを読まれても、何のことやら? と思われる方がほとんどかもしれない。
動きを説明するということはそういうことだ。
そのうちにもっと言葉に出来るようになると思っている。
今日のところは、このくらいで。
とにかく午後の朝日カルチャー土曜日クラスで、更に実践してみようと思っている。
それからしばらくしたある夏の日だった。
自宅の座敷で立ったとき、頭の一点で重さを受けている実感を得たことがあった。
それもいつごろだったか、思い出せない。
しかし、そのときの感覚は鮮明に残っている。
重さを受けている点にちかい実際は面だけれど、そこにスーッとつながり通るものがあった。
頭の中心は痛くも重くもない。
ゆらゆらとバランスの小さな揺れが感じられる。
その揺れは風が吹いたら倒れるくらいに、微妙なバランスで立っている実感だった。
そして、2009年に入って、少々気恥ずかしい言い方だが‘新境地’といいっても差し支えない道筋がつかめてきた。
それは他の人を立たせてしまう道筋なのだ。
初めての人でも軽々立てるように導ける‘道筋’のつけ方だ。
方法と言うのかもしれない。しかし、単なる方法ではない。
からだから時々刻々生まれる意識の流れなのだ。
意識過剰の意識とは違う。
イメージとも違う。
ある状況がからだの内側に生まれるように動きを重ねていく。
その状況のなかで何かが熟したら、そこで逆立ちに入っていく。
すると結果として立ってしまう、という境地。
これを読まれても、何のことやら? と思われる方がほとんどかもしれない。
動きを説明するということはそういうことだ。
そのうちにもっと言葉に出来るようになると思っている。
今日のところは、このくらいで。
とにかく午後の朝日カルチャー土曜日クラスで、更に実践してみようと思っている。