羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

記録と記憶 2ー藪蛇

2006年03月29日 08時30分44秒 | Weblog
 言葉の表現というのは、難しい。
 言葉にした途端に、違うものになる。
 言葉にした途端に、本質が指の間から砂のようにこぼれてしまう。
 現実は矛盾を孕んでいる。
 一つ一つの言い方は間違っていなくても、全体を通すと矛盾があらわれる。
 いちいち状況説明や条件を述べてからある一つの言葉を使うと、煩雑になって話がややこしくなる。結局、切り落として話を進めていくことになってしまう。

 一つをざっくり切り出して、そこ中心に話をすすめると、論理的には矛盾はなく話をすすめることは可能だ。しかし、それでは事実も真実も語っていることにはならない。
 野口先生は、ずっとからだ・ことば・うごきの間で、ご苦労されていたのだと思う。
 
 とくにそのことは、動きの命名に現れる。
 一つの名前を与えてしまうと、それで固定され、動きが一人歩きする。しかし、一人歩き始めたら、それを止めることはできない。
 と言って、名前をつけなければどうなるのか。それは、とても不便だ。

 たとえば「寝にょろ」という動きがある。
 ある人がその動きを見て、蛇を連想する。はじめに入った印象は強烈で、刷り込み現象がおこると、「蛇の動き」が、一人歩きする。運動の名前も「寝にょろ」だから、蛇に結びつくはいたって自然だ。これは外側から見た印象だが、間違ってはいない。
 
 では、そのときのからだのなかで起こることはどうかというと、これは液体的なイメージで、池に石を投げると波紋が外側に拡がっていく感じだ。
 
 そこで揺すってもらっている人の実感は、どんな感じなのかというと、おそらく蛇でも水でもなく、「気持ちがいい」である。
 この「気持ちがいい」という一言のなかには、十人いれば十人の感覚質がある。 つまり十のクオリアが存在する。
 結局、そこをつつくと藪蛇になる。

 自分が体験した野口体操の動きの記憶を、言葉の記録に残す作業を始めてみて「なんで、こんなことをはじめてしまったのだろう」後悔する。
 しかし、やってみなければ何もはじまらない。
 手を換え、品を換え、やり続けるしかない。

 今日の話、分かっていただけます?
 言葉の表現というのは、難しい。
 振り出しに、戻ってしまうというわけだ。
コメント
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