曇り。
あっという間に、「皐月」も半ばを過ぎ、「梅雨」がと言うよりも、「真夏」の方が迫ってきているような気がします。今年は「エルニーニョ」のみならず、「ラニーニャ」も発生するかもしれぬとか。本当に「くわばら、くわばら」です。この言葉も変と言えば変ですね。「雷様」が来ているわけでもないのに、困ったことが起きそうになると、自然に、この言葉が、呪文のように口をついて出てくるのです。習慣というのは恐ろしい…。
さて、学校です。
先日、タイの学生から「夏はいつもこんなに暑いのか」と聞かれました。「あはははは。聞かれてしまったぜ」と思う反面、熱帯のタイから来た人に言われたくないという気持ちが交差して、思わず、「タイは?」と聞いてしまいました。すると、ニコニコして、「もっと暑い…」。どうも、日本はタイよりずっと涼しいはずだと思っていたらしい。
だいたい、この学校に来ている留学生や在日生は、ほとんどが東南アジアか南アジアの人。中には「雪」を期待している学生も…嘗ては、いた。以前はよく訊かれていた「雪はいつ降りますか」も、最近はとんと訊かれなくなった。そういえば、雪のことは訊かれなくなったなあと思っていたら、今度は「夏の暑さ」です。「夏はこんなに暑いのか」。彼らの反応からも日本も気候異変のただ中にあるのがよくわかります。
あれは、もう二十年かそれ以上も前のこと。「(明治)維新のころの、(夏の)鹿児島の気温と、今の東京の(夏の)気温は同じくらい 」というのを聞いて、驚いたことがありました。若い頃行ったことのある夏の鹿児島は、九州育ちの私からしてみても、暑かった…何でこんなに太陽が近いんだと思ったくらいでしたから。
さて、学校です。
「Aクラス」でも、「Bクラス」でも、しっかりと(忘れずに)「N5・N4」の漢字を読むことにしました。中国人学生が多かったとき以外は、そう決めていたのですが、あれもこれもと忙しない授業の中で、この自分の取り決めは、忘れることが多かった。それに、忘れてもしょうがないくらいで済ませていた。
「N3文法」を(授業の)最初に読み合わせていくのと同じくらい大切にして、読み続けた方がいいのはわかりきっているはずなのに。ついつい疎かにしてしまっていた。口では酸っぱくなるほど言っておきながら…日本人であるからでしょうね。「漢字」の大変さ、面倒くささがどうも腹の底では判っておらず、軽んじていた。その上、「漢字が読めない!勉強していないんでしょ」なんぞと、ほざいていた…申し訳ない。反省すること頻り。
この「Bクラス」では、揃って(漢字を)忘れていますから、ある意味、やりやすい。「覚えてきている誰それさんがちょっと気の毒だな」とか、「やらない者が悪い。やっている人がいるのだから、わざわざ少ない授業時間を割く必要はない」などと考える必要が全くないのです。
ある意味、「揃って」くれているから、やれる。変に気を遣わずに済む。
確かに、「N5」にせよ、「N4」にせよ、(復習の)し始めはちと時間がかかります。が、やれば必ず結果として出てくるもの。最初は、自分で(プリントを)見て、ちょっとでも「あれ?」と思うものがあったら、印をつけておく」などの、時間を与えておければもっといい。
最初は授業時間が削られるし、う~んものなのですが、ただ、二回、三回と(私が忘れずに)繰り返しさえすれば、費やされる時間は、だんだん短くて済むようになっていきます。「文法」だって、最初の頃は読めなかった。それが最近は、こちらが忘れると、学生の方から、「先生、文法まだ(やってないぜ)」とお声がかかるようになっていることですし。
毎年、「初級」が終わり、「中級」に上がって、「読解」をやるときにはいつも、どの程度まで質問すればいいのかで悩んでしまいます。手探りで探し当てるしかないのですが、この葛藤は一ヶ月くらい、悪くするともう少し長く続くこともあります。こちらの方がいいと思っても、思い切れない部分が邪魔をするのです。こちらが答えを全部言ってしまっては「読解」の授業をやる意味はありませんし、かといって質問すると、沈黙というか、多分学生の方でも答えたいけれども、何が何だかよくわからないという状態で、三すくみ状態になってしまうのでしょう。
それがスーダンの学生を教えていたとき、「そんなこと、やったことがない(質問されたことがない)。どうすればいいのか判らない!」と叫ばれて、吹っ切れた。
曰く「『勉強ができる(成績がいい)学生』というのは『暗記力』に長けた人のことであり、文章を理解するための質問なんぞ、されたことがなかった。だから、先生の訊く意味が全く判らない」。別にそれで評価されるわけではなければ、(好き者であれば勝手に考えてしまうでしょうが)褒められることしかやらないというのも判ります。そしてそれしかないということになる。
で、説明に集中するようにした。終わってからも、「どういう気持ちでやったか」「みんながこうされたり、こう言われたりしたら、どんな気持ちになる?」。訊くのはせいぜいこれくらいのもの。
けれども、慣れというのは恐ろしいもので、こんな説明ばかりしている授業であるにもかかわらず、主語が言える人や、指示されているものを言える人が、少しずつ出てきたりした。
この過程を経ていなかったから、判らなかった、言えなかったのだということがよくわかりました。
とはいえ、毎年というか毎期、学生達は変わります。「非漢字圏」の多い人達の間でも、差はかなりあります。クラスの授業でどの程度まで緩やかにしていけばいいのかはその都度考えていかねばなりません。緩すぎてもうまくいきませんし、きつすぎれば、授業が沈黙の世界と化してしまいます。
4月からですから、やっと今頃、これくらいかが掴めたわけで、不器用な私に教えられる彼らがかわいそうになることもあります。尤も、肚ではごめんねと言いながらも、表面ではそれをおくびにも出さず、強面で通しています。
本当は、謝っているんだよ、君たち。ごめんね。
日々是好日
あっという間に、「皐月」も半ばを過ぎ、「梅雨」がと言うよりも、「真夏」の方が迫ってきているような気がします。今年は「エルニーニョ」のみならず、「ラニーニャ」も発生するかもしれぬとか。本当に「くわばら、くわばら」です。この言葉も変と言えば変ですね。「雷様」が来ているわけでもないのに、困ったことが起きそうになると、自然に、この言葉が、呪文のように口をついて出てくるのです。習慣というのは恐ろしい…。
さて、学校です。
先日、タイの学生から「夏はいつもこんなに暑いのか」と聞かれました。「あはははは。聞かれてしまったぜ」と思う反面、熱帯のタイから来た人に言われたくないという気持ちが交差して、思わず、「タイは?」と聞いてしまいました。すると、ニコニコして、「もっと暑い…」。どうも、日本はタイよりずっと涼しいはずだと思っていたらしい。
だいたい、この学校に来ている留学生や在日生は、ほとんどが東南アジアか南アジアの人。中には「雪」を期待している学生も…嘗ては、いた。以前はよく訊かれていた「雪はいつ降りますか」も、最近はとんと訊かれなくなった。そういえば、雪のことは訊かれなくなったなあと思っていたら、今度は「夏の暑さ」です。「夏はこんなに暑いのか」。彼らの反応からも日本も気候異変のただ中にあるのがよくわかります。
あれは、もう二十年かそれ以上も前のこと。「(明治)維新のころの、(夏の)鹿児島の気温と、今の東京の(夏の)気温は同じくらい 」というのを聞いて、驚いたことがありました。若い頃行ったことのある夏の鹿児島は、九州育ちの私からしてみても、暑かった…何でこんなに太陽が近いんだと思ったくらいでしたから。
さて、学校です。
「Aクラス」でも、「Bクラス」でも、しっかりと(忘れずに)「N5・N4」の漢字を読むことにしました。中国人学生が多かったとき以外は、そう決めていたのですが、あれもこれもと忙しない授業の中で、この自分の取り決めは、忘れることが多かった。それに、忘れてもしょうがないくらいで済ませていた。
「N3文法」を(授業の)最初に読み合わせていくのと同じくらい大切にして、読み続けた方がいいのはわかりきっているはずなのに。ついつい疎かにしてしまっていた。口では酸っぱくなるほど言っておきながら…日本人であるからでしょうね。「漢字」の大変さ、面倒くささがどうも腹の底では判っておらず、軽んじていた。その上、「漢字が読めない!勉強していないんでしょ」なんぞと、ほざいていた…申し訳ない。反省すること頻り。
この「Bクラス」では、揃って(漢字を)忘れていますから、ある意味、やりやすい。「覚えてきている誰それさんがちょっと気の毒だな」とか、「やらない者が悪い。やっている人がいるのだから、わざわざ少ない授業時間を割く必要はない」などと考える必要が全くないのです。
ある意味、「揃って」くれているから、やれる。変に気を遣わずに済む。
確かに、「N5」にせよ、「N4」にせよ、(復習の)し始めはちと時間がかかります。が、やれば必ず結果として出てくるもの。最初は、自分で(プリントを)見て、ちょっとでも「あれ?」と思うものがあったら、印をつけておく」などの、時間を与えておければもっといい。
最初は授業時間が削られるし、う~んものなのですが、ただ、二回、三回と(私が忘れずに)繰り返しさえすれば、費やされる時間は、だんだん短くて済むようになっていきます。「文法」だって、最初の頃は読めなかった。それが最近は、こちらが忘れると、学生の方から、「先生、文法まだ(やってないぜ)」とお声がかかるようになっていることですし。
毎年、「初級」が終わり、「中級」に上がって、「読解」をやるときにはいつも、どの程度まで質問すればいいのかで悩んでしまいます。手探りで探し当てるしかないのですが、この葛藤は一ヶ月くらい、悪くするともう少し長く続くこともあります。こちらの方がいいと思っても、思い切れない部分が邪魔をするのです。こちらが答えを全部言ってしまっては「読解」の授業をやる意味はありませんし、かといって質問すると、沈黙というか、多分学生の方でも答えたいけれども、何が何だかよくわからないという状態で、三すくみ状態になってしまうのでしょう。
それがスーダンの学生を教えていたとき、「そんなこと、やったことがない(質問されたことがない)。どうすればいいのか判らない!」と叫ばれて、吹っ切れた。
曰く「『勉強ができる(成績がいい)学生』というのは『暗記力』に長けた人のことであり、文章を理解するための質問なんぞ、されたことがなかった。だから、先生の訊く意味が全く判らない」。別にそれで評価されるわけではなければ、(好き者であれば勝手に考えてしまうでしょうが)褒められることしかやらないというのも判ります。そしてそれしかないということになる。
で、説明に集中するようにした。終わってからも、「どういう気持ちでやったか」「みんながこうされたり、こう言われたりしたら、どんな気持ちになる?」。訊くのはせいぜいこれくらいのもの。
けれども、慣れというのは恐ろしいもので、こんな説明ばかりしている授業であるにもかかわらず、主語が言える人や、指示されているものを言える人が、少しずつ出てきたりした。
この過程を経ていなかったから、判らなかった、言えなかったのだということがよくわかりました。
とはいえ、毎年というか毎期、学生達は変わります。「非漢字圏」の多い人達の間でも、差はかなりあります。クラスの授業でどの程度まで緩やかにしていけばいいのかはその都度考えていかねばなりません。緩すぎてもうまくいきませんし、きつすぎれば、授業が沈黙の世界と化してしまいます。
4月からですから、やっと今頃、これくらいかが掴めたわけで、不器用な私に教えられる彼らがかわいそうになることもあります。尤も、肚ではごめんねと言いながらも、表面ではそれをおくびにも出さず、強面で通しています。
本当は、謝っているんだよ、君たち。ごめんね。
日々是好日