日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

国の教科書は全部「英語」で書かれていた。先生がそれを「母語」で、説明してくれたけれども…。

2024-05-22 08:32:37 | 日本語学校

曇り。

「アジサイ」が咲き始めると、「梅雨入り」間近という気がしてくるのですが、奄美・沖縄地方はもう「梅雨入り」をしたとか。このあたりでも、もうすぐでしょうね。

スーパーの近くにある植木屋さんの庭には、幾種類もの「アジサイ」やら、「ウツギ」やら、白い「つるバラ」やらが、盛りを迎えています。花がたくさん咲いていると、それだけで「豪華!」と感嘆符をつけたくなってしまいます。やはり自然が一番「すごい」ですね。

さて、学校です。

学生達の間には、「英語」という「呪縛」が、かなりかかっていて(それは日本人でも同じなのでしょうが、少なくとも日本では日本語という母語で教育を受けることが出来ます)、それを解き解くのにかなり時間がかかることがあります。場合によっては、それが無理なこともある…。特に「在日」の人では(勉強する期間が三ヶ月ほどしかない場合もありますし)。

時々、日本で中学校に通いながら、日本語の授業を受けに来ている「中学生」を教えることがあるのですが、東アジアや東南アジアからの学生はまだいいとして、特にイギリスの植民地だったところとか、その周辺から来た人に、この「呪縛」にかかっている人が少なくないのです。

何かの事情で、日本に来た。そして日本の学校に通っている。来たばかりであるから、日本語がわからない。日本語がわからなければ、授業がわからない(中学校の授業について行けない)。自分は、そういう状況に耐えられない。それに甘んじることはできない。なぜなら自分は優秀であるから…というのが、根底に見え隠れして、素直に他者や物事に対していくことができない…ように見える。

自分は優秀なのに、日本語がわからないせいで日本人と伍していくことができない。その精神は素晴らしいと思うのですが、そこに「威を張りたいのに、張れない」というような意識があるようで、それがどうもいただけない。他者と彼とを隔てているような気がする。

この学校では、そのような面はあまりは見せなかったのですが、それは私たちが彼なりの主張・不満を聞いた(吐き出させた)上で、授業を進めていったからでしょう。モヤモヤがあると授業に集中できませんから。もちろん、それは個別授業と言ってもいいような形でできたからのことで、公教育では一斉授業ですから、それは望むべくもないこと。無理です。

話を聞いていると、「私は英語ができる」が、そもそもの(不満)の根底にあるようで、「日本人は英語ができないのに(英語ができる自分の方がなぜ下なんだ…」と来るのでしょう。

彼曰く「国の授業では、教科書はみんな『英語』だった」。聞いた感じでは、それを誇っているかのよう。「どうして日本では「英語」の教科書を使わないのか。レベルが低い国だ」くらいの気持ちで言っていたようです。これもしょうがないでしょうね、そういう国から来ているのですから。

留学生であったなら、「教育」というのは国力が出やすいもの。ある程度の国力がある国では、「母語」で高等教育まで受けることができるが、それほどではない国では、何から何まで「借り物」でやらなければならない。つまり、そういう国では、「英語」ができるかできないかで、成績が決まってしまうし(当然、進路も決まるし、職業も決まってくるでしょう)、クラスの中の人間関係での順位まで定まってしまう…かもしれません。

「英語」が得意であったら、それだけで頭一つ抜けてやれますから、それほどの能力がなくとも、威を張ることができる。で、それが日本で通用するかというと、当然のことながら、英語は科目の英語だけで、他は日本語での授業ですから、不満がでる。「こいつら、英語ができないくせに」。早く、この「呪縛」が解ければいいのですが、これで育ってきた人で、それだけが取り柄という人には、これは…ちと難しい。

以前、彼と同国の留学生に聞いたことがあるのですが、「(学校教育では)『教科書』は『英語』で書かれていて、何にもわからなかった。授業では、先生が『母語』で、内容を説明してくれて、それを聞くだけだった」。その時は、…そうか、だから「読解」が苦手なんだ。(こんな簡単なことを)どうしていいかわからないんだと、立ち竦んでいる彼らを責めることが間違いであることが、その時、よくわかったのですが。

それからは、一転。スッパリと授業のやり方を変えました。本を読むという習慣がついていなければ、日本語でつける。とにかく読ませる。読む、読む、読む。その繰り返し。意味はわかっても判らなくてもいい(説明はします。ちょっと乱暴な言い方ですが)。何度も読む練習を一緒にし、漢字も、漢字の時間でなくともやる。それを繰り返す。内容(つまり、読解)に拘らない。最初は答えをこちらが言い、説明するくらいでいい。読むのが嫌だだけは感じさせない。

それに、自分もそうだったのですが、外国人(よく知らない人)と話しているとき、わからないこと(あるいは言葉)があっても、聞いたりしなかったのです。いちいち聞いたりせずに、適当に受け答えしていた。そのような状況が続くと、いつの間にか、それに慣れて、テキトーが身につく。不便を感じなくなってしまうのです。その点、本がある(文字や図、表などがあると)と違います。意味がわからなければ、調べることもできるし、読み返すこともできる。一度で判らなければ、二度三度、あるいは間をあけて読み返して理解を深めることもできる。

この差は大きい。彼らも、国にいれば、これまで通りテキトーにやって、困ることはなかったでしょう。政治や経済、文化や生活の細々としたことなどを誰かと膝をつき合わせて話すようなこともなかったでしょうから。母語であろうと、いわゆる(日本で)「工場」などのアルバイトで使うような日本語だけで事足れりとなるのも、ある意味からすれば、当然のこと。

「読解」の授業のように、「指示語」を問われたり、文章の流れを聞かれたり、筆者の意見を考えさせられたりすることに、慣れていなければ、どう答えていいか、そもそもどう振る舞っていいかさえ判らず、固まるしかないのも、宜なるかな。

しかし、反対に言えば、英語さえ、ある程度わかっていれば(家庭環境によるのでしょう。小学校一年生で、英語を習っていないのに、できるとは思えない)、それほど英語力に長けているとは思われない小中学校の教師を馬鹿にすることもできるでしょうし(そんなこと書いていないとか、違うよとか言えますから)、素直に勉強に集中することもできないでしょう。

困ったなあと気の毒だなあと同時に感じながら、それでも、とにかく力はつけさせていかなくてはなりません。

日々是好日
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