日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「祈り」。「『留学試験』申し込みの時に」。「今、何をしなければならないか」。

2010-07-09 08:39:13 | 日本語の授業
 昨日の青空は、梅雨のある日に夢見た「まやかし」のようなものであったのかもしれません。今朝の空は、雨こそ降っていないけれども、梅雨時特有のどんよりとした雲に覆われています。

 とはいえ、確実に季節は進んでいます。町の「アジサイ(紫陽花)」はすでに華やかさを失い、トップの座を、「ムクゲ(木槿)」や「キョウチクトウ(夾竹桃)」に譲り始めています。もう「真夏よ。いつでも来い」と言ったところでしょうか。後は「梅雨明け」を待つばかりです。しかしながら、この「梅雨の終わる頃」というのが一番怖い。地盤が、長く続いた雨のせいで、すっかり緩んでいるところへ、集中豪雨が一度でも「ざあっと」と来たら、あっという間に「土石流」の発生です。ヒトというのは、危険と隣り合わせでしか生きていけないものなのでしょうか。

 「安楽に」とまではいかずともよい、「恙なく、何事もなく」生きて行けたらというのが、万人の願いでしょうが。そんな願いも、「大自然」相手では詮無いこと。大自然の一拭きで吹き飛んでしまいます。だから、人は「神」というものを創り上げ、祈ってきたのでしょう。だいたいからして、「よすが」がなければ、頼るにしても、祈るにしても、どうして良いのかわかりませんもの。

 とにかく、「目に見える何か」が欲しい。人はそう思い、あるときは、それが「石」であったり、「鏡」であったりしたのでしょう。「海」という神があると言っても、「山」という神があると言っても、あまりにも茫漠としていて、捉えられないのです。自然はその圧倒的な存在で、人に迫っては来るものの、あまりに大きすぎたり、抽象的でありすぎたりすると、人はすぐに対象を見失ってしまうのです。

 「祈り」にしても、一人二人の祈りは空しく、その思いが千人一万人と多くなるにつれ、「天地をも動かす」となるのでしょう。とはいえ、「蟻の思いも天まで届く」と申します。いくら、か弱い人間の、それもたった一人の願いであろうとも、「本気」というのは強いものです。「天」にまでは行けずとも、頑なな「他者」を動かしうることもあるのです。

 さて、学校です。

 今年の「四月」に来た学生達も、はや三ヶ月が過ぎようとしています。「初級1」から始めた学生達にとっては、今が生活面でも一番苦しい時のようです。この時期を乗り切れば、三ヶ月後、半年後には、あの苦しさをふり返って見られるほどの余裕は出来るでしょうが。

 昨日、「初級」のクラスでも、「(11月の)留学生試験」の話(申込の締め切りが迫っているのです)をしました(実は、このクラスにも、この試験に参加しておいた方がいい学生、つまり、来年の三月に卒業を迎える学生がいるのです)。その時に、「試験料」の話もしたのですが…。

 その時に、まだ、完全には、日本の物価に適応出来ていない学生の口から「おう」というため息が漏れました。「来年、自分にそれを払うだけの力があるかしら」とでも思ったのでしょう。それで、「今が、(生活の面でも、勉強の面でも、そのほか日本での生活の面でも)一番大変な時期なのだ」ということ。それから、ただ、「大変だ、大変だ」と、生活のことばかりにかまけていると、勉強が疎かになる。そうすると、お金は十分にできた。けれども、日本語の能力や、総合的な知識(留学生試験の「総合問題」)がないために、行きたい大学からも門前払いを食わされるということもありうる。目先の大変さ(金銭的な意味で)に囚われてしまってはならないということなどを話ましました。

 この「初級クラス」は、二三の例外を除いて、見事に19才とか20才とかの学生が揃っているのです。それで、授業も、まるで「中学生」を相手にしているようで、楽しいのですが、何か一つでも辛いことがあると、すぐにみんながシュンとなってしまうのです。一人がシュンとなると、途端にみんながシュンとなります。どうして違う国から来ているのに、おんなじになってしまうのだろうと思われるほどなのですが、本当に全員が暗くなってしまうのです。

それで、教師としては、常に、明るい方を指し示してやらねばなりません。その浪に乗っていれば、暗さに気づかずに済むし、気づかぬ間に、大半の物事が順調に滑り出すということもあり得るのです。

 で、「留学生試験」の話です。そんなクラスですが、そういう風なことを話しているうちに、一番、目が「ウルウル」していた学生の顔が、少しずつ明るくなってきました。「そう、今が一番辛い時。頑張れば、大丈夫なんだ」と、思ってくれたかどうかは判りませんが、一応、「今は、勉強のことだけを考える」ようにしてくれたようです。元気に大きな声で繰り返していましたから。

 だいたい、半年後、一年後のことなんて、誰にわかります?「来年のために、こうした方がいい」と言っている、私からして、確かなことは、何一つ判らないと言っても良いほどなのです。

 彼らの日本語の力が、どれほどのものになっているか、大切なのはそれだけであり、確実なことは、そのために日々勉強しなければならないということだけなのです。それ以外のことは、その実力に応じて、上がりもし、下がりもすることなのです。だから、教師がそばにいる間は、学生は「(勉強に関しては)近視眼」でいいのです。そして、日々与えられた課題を律儀にこなしていけばいいのです。遠くを見ねばならぬ時には、教師が「望遠鏡」を取り出して、あちらを見ろと指示するでしょうから。

日々是好日
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