晴れ。
今日は卒業式。みんなの門出を祝福するように、空は晴れ渡っています。昨日の雨のおかげで、空気も清々しい。
昨日、授業の時に、ネパールの学生、「○○さんは、きれいな服を着てきます」。言外の意は、自分も着たい。慌てて「あなたたちは、来年ね。今年はだ~め」。また、あるインドの学生(卒業生です)、「私はこの服を着ます」と、前に来た時の写真を見せてくれました。「あ~あ、明日の楽しみがないじゃないの」と、まあ、言いたかったけれども、怺えて、「楽しみね」。またまた、ある学生「先生、ダンスは?」。大声で「ありません!」
彼等の国では、結婚式でも、パーティ(謝恩会や茶話会くらいのものでしょうか)でも、どうもダンスというやつが付きもののようで、一年生など、それを期待して待っているかのような気配がします。とんでもないと、早速、打ち消しにかかります。
睨みを利かされているからか、普段はいい子ぶりっ子している学生達も、こと、卒業式などとなって来ますと、すぐに地が出てきます。楽しみたいのでしょう。けれども、日本の卒業式の主役は卒業生であり、残る学生は、彼等に奉仕するのが務めなのです、卒業式だけはね。そして、来年は、彼等がそうして面倒を見てもらえる。つまり、順繰りにやってくるのです。
学生達が、あまりよくわからないことの一つに、「先輩の○○さんによくしてもらったから、自分が先輩になったら、後輩に、同じようによくしてやらねばならない」という考え方。○○さんにお返しではなく、それと全く関係のない人に、どうして自分がよくしてやらなければならないのかと言う人もいて、なかなかすんなりとは理解出来ないことのようです。
これは、現代では、ある意味、日本の会社や学校などの組織において、伝統を作っていくためのやり方なのかもしれません。そうやって様々な組織で伝統は作られ、引き継がれていくのでしょう。
学生達にはこういうことも、少しずつわかってもらいたい。伝統がなければ、行き当たりばったりの、その場しのぎの組織となってしまいます。卒業してからも懐かしむこともなければ、行ってみようという気にもならないでしょう。
そういう意味からも、学生達には、卒業してから学校に来た時に、彼等が(ここに)在学だった時のこと、そして今(何をしているか、どういう状況にあるか)を語ってもらう。
これは在学生にとっても、自分の輪から抜け出せるために必要なことですし(同国人などの枠から離れられない人も少なくないのです)、自分の将来について考えを巡らす助けともなる。
せっかく異国に来たんですからね。いつまでも自分の国の尾っぽをつけているんじゃない。まずは自分の目で日本を見るべし。そして自分で考えてみるべし。そのためにはその地の人と語り合うべし。語り合えるような人を見つけるべし。みんな若いんだから。
私たちはそのために、何かをしていると思うのですけれども。もちろん、日本語を教えることを通してですけれども。
日々是好日