日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

総理が辞任しました。それから外国人の子弟の日本語教育について。

2008-09-02 08:14:57 | 日本語の授業
 福田総理が辞任しました。安倍総理の時には、「無責任な。総理という、一国を預かる職が、己に出来るか出来ないかぐらい、最初分からなかったのか。そんな奴が、この国の総理だったのか」と、日本人ならほとんどの人が思ったと思いますけれど。

 今回は、「号外」がでたのが不思議なくらい。「へえ。『総理』ってイスに座りたかったのね。だからなった。でも、ちょっと大変だったから、『ヤーメタ』だったのだろうな」としか、みんな感じていないのではないでしょうか。

 福田総理の「私は自分を客観的に見ることが出来るんです。あなたと違って」というのには、笑ってしまいましたけど。まだ、安部前総理のように、国会議員を続けるんでしょうね。自分から投げ出したのに。

 やっぱり、政治家という仕事をめざし、がんばってきた人が、「国政に参加すべく選挙に打って出る」という形がいいですね。

 だいたいおかしいです。大変な職だったら、こんなに「世襲」が多いはずがない。職人の世界ならいざ知らず、能や歌舞伎などの芸能の世界ならいざ知らず、政治家の世界に世襲なんて。

 大変だったら、みんな自分の子供にはさせたくないはず。「楽に金が儲かる」から、馬鹿な子にさせてしまうのでしょうね。「他の仕事だったら、芽が出ないから」。これが、「無給で国政を担う」だったり、「『防衛』や『外交』など国単位で、動かねばならないことだけをするのが国会議員」だったりしたら、こうはならないのではないでしょうか。

 何てったって、外交は、大変です。「外国の政治家」は「怖い」ですもの。「知識」はあるし、「胆力」はあるし…。日本の中で、村会議員が、隣の村と「なあなあ」でやるようなわけにはいきません。それなりに「海外の世界を知っており(大臣になった途端、外遊と称して、国費で旅行するという、あれではありません。そんなことは、若いうちに自分の金でやっておいて欲しいもの)、国内の利権がらみで動かない人(『信念』が必要です。そうでなければ、完全に『怖い外国の、海千山千の政治家』に『柔な日本の政治家』は喰われてしまいます)」か、「幕末の高杉晋作のように、相手を呑んでかかることの出来る『勇者』」か、いわゆる「専門家」しか、出られなくなるでしょう。

 道路やなんかは、地方に任せておけばいいのです。「隣の国」を、「正確」に見ることは難しいけれど、「隣の県」や「隣の町」なら、そう難しいことではありません。「あなた方に、私たちのお金を渡して、うまくやるようにさせているけれど、どうして隣町はあんなに住みやすくて、ここはこんなに住みにくいのか」と、そういう目も、確実に育っていくことでしょうし。

 この人はだめだから、他の人にすると。それに、行政単位が小さければ、半分ボランティアの要領で出来るはず。今、「仕事をした時だけ払う」という、村や町が少しずつ出現していますね。それでいいのだと思います。国や県がやるのではなく、村の人が総出で、道を造ったとか、川を整備したとか、昔の「村落共同体」を彷彿とさせるような取り組みも行われていますし。それになりより、「情」がある。「情」が見えねば、共同体と称するべきではないと思うのです。

 先日「葉っぱビジネス」というのを、テレビで見ました。すごいですね。その人が、村で初めて仕事をした時、村の人が「『補助金』をもらう」のを、当然の権利のようにしていた。自分の力で「金を稼ぐこと」を忘れていた。その人は、そういう現状を目にして、心を痛めるのです。もはや、そこには「たかり」の精神しか、見られなくなっていたと。「どうしたら、村人を、立ち直らせることができるのか」。それを常に考えていたから、一見、荒唐無稽にも思われる「葉っぱビジネス」を成功させることが出来たのでしょう。

 八十何歳かにもなる「じいさま」や「ばあさま」が、自分の力で、年に何百万も稼いでいる。「じいさま」や「ばあさま」の表情がいいですね。人に頼らないで、「大地に立つことができる」と、人は自信に満ちた表情にもなりますし、何より「卑しげな」ところがないのです。

 この「じいさま」や「ばあさま」を変えることが出来たこの人は、多分、東大出とか、官公庁出身とかではないでしょう。「ルール通りに処理することに長けている」のではないのです。ます、「現場」から出発しています。現場を、正確に見、その場の問題点を洗い出し、解決策を常に考える。まず、「現場」です。

 この人に、いくらいい「閃き」があったとしても、この村に住む「じいさま」や「ばあさま」が、出来ないことだったら、それは「生かされない」のです。その場に適してこその「閃き」なのです。

 最近は、よく政治家の「すばらしい言葉」を耳にします。自分に都合の悪いことでも、「私は、賛成です。こうしたらいい云々」。で、「いつ出来るのか」と聞くと「今はいろいろと問題があり、難しいですがね。でも、私は賛成ですよ」。これは「やる気がない」のでしょう。今、困っている人に「いつ」はないでしょう。

 この市川市に属する行徳にも、いろいろな問題があります。その中の一つに、外国から来た子供達の教育というのがあります。

 ここは外国人が多いので、彼らが国から呼んだ子弟も多いのです。この子達に施すべき教育も現在のところ、見る限りでは、後手後手に回っていると言わざるを得ません。

 しかしながら、これらの責任を市に転嫁すべきではないと思います。彼らは、命じられたことを事務的に処理していくのが仕事ですから。責任を問われるべきは、いわゆる「政治」を担当している人達です。どうして、この人達に、外国人を定住させれば、こういう問題が生じるはずだという、この「想像力、洞察力」が欠けていたのでしょう。それこそが彼らの「得手」のはずですのに。洞察力が欠けている人で、「指導力」のある人がいますか。

 若い外国人が多ければ、どういうことが起こるか。若い外国人は生活が安定すると、結婚したり、祖国から妻を呼んだりします。当然子供も一緒に来ます。この子供は、日本語が出来ません。小さいうちは、そのまま小学校へ入れれば済むでしょうが、小学校高学年から上は、日本語が出来なければ、学校の勉強についていけません。知識の吸収もできなければ、日本のルールを覚えることも出来ないし、日本人の友だちも出来ないのです。

 義務教育が終わるまでは、とにかく学校に在籍できるけれども、卒業してしまうと、さてどうするか。「思考する言語」を持っていなければ、いくら「ぺらぺら日本語が話せても」高校には進めません。問題が解けないのです。ブラブラしているか、アルバイトをするか、それから後はもうだいたい道は決まってしまいます。こんなことは、分かりきったいたことでしょうに。今は、現実問題として存在しています。

 私たちもよく相談は受けるのですが、中学校へ通っている子供の場合、どんなに早くとも4時くらいまでは、学校に拘束されていますので、日本語の勉強に来ても、日に30分かそこいらでは、焼け石に水です。

 この学校の「正規のクラス」で教えているほどの時間は必要です。それができれば、半年ほどで「初級」は終わります。(実際に、フィリピンから来た男の子…14歳で来ました…は、今年の4月から日本語の勉強を始め、今週で、つまり六ヶ月目で、初級の教科書『みんなの日本語Ⅰ』と『みんなの日本語Ⅱ』は終わります)。彼はご両親とも教育熱心で、とにかく日本語を身につけさせて欲しいということでしたので、来日後すぐに勉強を始めたのです。

 もとより、誰でもこの子のように出来ると言うわけではありません。「自分の国で勉強する習慣がなかった」という子や、親御さんが「自分も教育なんて受けていない。日本語なんて、自然に覚えられる」くらいにしか考えていない場合は、私たちは手を出せません日本人の子供達が通う「塾」もそうではありませんか。

 日本人の子供達も「塾」へ行きます。大枚をはたいて、「塾」へ行きます。共稼ぎ出なかった場合、母親がそのためにパートに出るというのも、珍しい話ではありません。けれども、ここには「教育は大切だ」という日本人の共通認識があるのです。それがなければ、勉強したいとお金を払ってまで来ている人達の邪魔をすることになるわけですから、こういう所では受け入れられません。通えばいいというのではないのです。勉強してもらわなければならないわけですから。それが出来なければ、公的機関に助けてもらうより他しかたがありません。

 けれど、勉強させたい、或いは大学まで行かせたいというのなら、来日後すぐの日本語教育は、絶対に必要です。しかも、系統性のある教育を受ける必要があります。

 私たちはこう思うのですが、さて、皆さんはどうでしょう。

日々是好日
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