日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

ペシャワール会、伊藤和也さんの死

2008-09-01 07:46:26 | 日本語の授業
 今日は防災の日。関東大震災すら、記憶の彼方に追いやってしまうな大きな地震や津波が、毎年のように世界各国を襲っています。最近は、それに加えて、ハリケーンやサイクロンといった言葉も、頻繁に耳にするようになりました。しかも、「巨大な」という枕詞が添えられて…。

 こういう中で、ますます、国際交流や国際協力、国際援助というものが必要になってきています。しかしながら、それを阻害する「動き」も、国際化が進むと同時に、広域化し、巨大になっているのです。

 アフガニスタンで、伊藤和也さんが、拉致され、殺害されました。死因が失血死だと報じられ、悲しみを新たにされた方も多いことでしょう。ご両親の悲しみはいかばかりか…。

 彼が属していた「ペシャワール会」というのは、日本では非常に有名な「非政府組織」で、「政府の金はもらわない」、しかも、「現地住民が必要としていることを行う」と言う点が、一貫していることから、多くの日本人の尊敬を集めていました。

 もともと、中村哲という医師が、パキスタンからアフガニスタンにかけての、ハンセン病対策に取り組んでいたのですが、2000年の大干ばつの際の赤痢の流行から、清潔な飲料水の確保の必要性を痛感、水源確保事業も始め、また同時に、危機に瀕している農村の回復を目指し、農業の指導も行っていました。

 彼の活動に共感し、協力する人達も増え、成果も上がっていた矢先の出来事で、これからの活動を思うと、暗澹たる思いにかられます。さぞ、無念でしょう。誰がやれと言ったわけでもない。誰にやらされたわけでもない。自分たちが必要と思い、実行してきたことでしたでしょうから。

 伊藤さんが殺害されたことがわかってから、日本人の心の中には「なぜ?いったいどうして」という黒い澱のようなものが、ずっとわだかまっていて、なかなか流れていきませんでした。本当に割り切れない思いです。

 貧しさや飢えから、テロは始まるし、憎しみは連鎖する。それを断ち切るためには、「皆が飢えることのない社会を作らねばならない。そのためには、まず『水』と『農業』だ」というのは、本当に正しい。だれもこれに否やを唱えることなどできないはずです。

 人が「生きている」と実感できるのは、「『助けてあげる』と言って、自分は安全地帯にいて、スイッチを押す『爆弾』」でもなければ、「お恵みの食糧」でもないのです。アメリカ式の「爆弾」は論外ですが、人は「恵まれつける」と、「手を差し出す」こと以外しなくなります。これは、遠く外国を見るまでもなく、我が国においてもそうではありませんか。

 「補助」という名の下に、「政府のいうことを聞く」人だけに、お金がばらまかれ、人は簡単に、それに馴らされていく…。とても怖いことです。自分は、果たすべき「義務」らしきことなど、何もしないのに、「権利」だけを主張し始めるのです。

 「ペシャワール会」の活動というのは、「農業用水路」を造り、乾燥地に適した「農業技術」を伝え、地元の人達が自力で農業が出来るようにしていくことでした。「爆弾」でもなければ、「施し」でもないのです。

 人が「人として『尊厳のある生き方』を取り戻していくための活動」と言ってもいいでしょう。人は「飢え」たり、「貧し」かったりすると、「人」であることを忘れてしまいます。自分の力で出来ることがあってはじめて、「人」であることを思い出すのです。

 常に「他者に頼り、寄りかかる」というのは、人としてあるべき姿ではありません。どんな人でも、自分の力でやってこそ、喜びも味わえるのですから。

 そういう活動を、二十数年続けてきたそうですが、これも、もう無理でしょう。人は善意だけでは、だめなのです。その人々の「善意を生かせる」ようにするのが、本来は「国の役割」なのでしょうが、「国」の広報者は、トンチンカンなことを発表するだけ。殺害された方や、同じような活動をなさっている方々にくらべ、あまりにも見劣りしているのが、本当に情けない。それに、殺害者として捕まっている人が「パキスタンのイスラム勢力に金で頼まれた」と言っているのも、やりきれませんね。

 一つの村が成功し、豊かになると必ず「嫉妬する」近隣の村がでる。「自分の方も一緒にやっていこう。私の方も指導してくれ」とはならずに。

 「発展途上国だから」とか、「イスラム勢力が云々」とか言うよりも、もしかしたら、そういう、つまらない人間の心の闇が、ペシャワール会の一員たる、一人の日本人の死を招いたのかもしれません。

 そして、地元の人達の「本当に必要としているもの」を見ずに、アメリカとか国際連合とかの動きで、右往左往している日本政府がそれを促したかもしれないのです。

 日本でも、少なからぬ「紐付きでない」団体が、世界各国で人々のためになる活動をしています。何々大臣とかが、途上国に行く度に、「○○○万円やら、○○○億円やらの援助を行う」と、見得を切っている姿をよく見かけますが、これからは、「国会議員に立候補する者は、必ず何かの非政府組織に属した経験を持ち、発展途上国で苦労しなければならない」という一条を、立候補の資格に入れてみてはどうでしょう。「己がこと」として、考えられるようになれば、少しは応対の仕方も変わってくるでしょう。

 そうすれば、「大国の論理」に振り回されることなく、「日本の論理」に則った外交が出来るようになるかもしれません。

 北欧諸国の例を見るまでもなく、「バランス感覚」と「己の信念」というのは、座っていたり、親の鞄持ちをしているだけで、身につくものとは考えられないのですが。

日々是好日
コメント
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