日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

菊花。卒業生

2008-09-09 08:04:50 | 日本語の授業
 朝夕、めっきり秋めいてきました。思えば、今日は「重陽の節句」。むべなる哉。もう、菊のお節句になっていたんですね。

 「菊の節句」で連想されるのは、菊酒でも、お習字でもなく、「菊人形」といったところでしょうか。子供の頃は、よく連れられて見に行ったものでした。近くの遊園地で、毎年、菊の品評会と菊人形展が同時に開かれていたのです。子供ですから、お目当ては、本当のところ、遊園地の「アヒルさんレース」でしたけれど。でも、あの菊人形の臈長けた姿と、鮮烈な菊の香だけははっきりと覚えています。

 小学校のころ、国語の教科書に、「菊花の精」の物語が載っていました。花の精というのは、古今東西どの国の昔話や神話にも必ずと言っていいほど登場するものなのですが、花の精が、「人間界に出、人間と交わり、しかも自分で同種の花を育てる」というのが、少し不思議で、読みながらも、なにやらその話に埋没できぬ自分を感じました。後に中国へ行き、白話文で、『聊齊志異』を読んだ時、その記憶がふっと蘇ってきました。もちろん、子供の時の記憶と多少異なってはいましたが。

 日本の翻訳物、特に子供向けに訳されたものというものは、どのような物であろうと、「毒」を薄められて登場します。内容が変えられていることもしばしばです。この物語は内容こそ変えね、「生々しさ」が全く消えていました。もちろん、大人向けの物を読めば、すぐに解ることなのですが。子供向けに「毒を薄め、内容を多少変える」というその理由も、今では解るような気がします。

 (小学校のころ、『グリム童話』を「発見」したことがありました。この『グリム童話』は私が知っていた『グリム童話』とは、全く異なっていたのです。本当に恐ろしくて、何日も夜歩けなくなってしまいました。「闇」と「影」が怖くて怖くてたまらなかったのです。大人になって、「シュバルツバルトの森」の話を聞き、映像を見た時、「童話の世界の闇」と「森の闇」が初めて一つになりました。あの民族は本当に不可思議千万な民族です。不思議さを感じるにとどまらず、あの暗さに神秘さえ感じてしまうほどなのです)。

 けれど、まあ、当時、私は「ギリシャ神話」や「北欧神話」に夢中になっていましたから、この「中国物」を新鮮な思いで読みました。「これこそ『「東洋』だ」なんて、思っていましたから。

 しかしながら、栄枯盛衰と言うべきか、菊やキンモクセイなどが脳裏に浮かぶ頃、街角で目につくのは、うらぶれた夾竹桃の姿です。我が世の春とばかりに咲き誇っていたのは、つい昨日のことのように思えますのに、もう花を…いくつも残していません。

 ところで、昨日は早朝から、卒業生の「お出まし」でした。聞くと、今年の3月に卒業したにもかかわらず、今でも以前のアルバイト先に勤めているということ。その帰りに寄ったということでした。中国人の学生にしてから、そういう状態の人もいるのですから、学生達がこの近くから出たがらないのも頷けます。

 一度この近くに住んでしまうと、なかなか遠くへは行けなくなってしまうのです。アパートも、アルバイトも捜しにくいことですし。

 考えてみれば、日本人であってもそうですから、まして、外国から来ており、しかも、日本に住んでいる同国人が少ない場合は、なおさらです。

 私たちも、卒業後、進学を希望する学生に対しては、この面でも、かなり気を使います。

 はっきりと「専攻」したい学科が決まっている学生は、関東地区でしたら、どこであろうとあまり不満は出ないのですが、そうでない学生の場合、この近くか、進学先に同じ国の人がいるかが、決め手になります。一人だとだめなのです。頼る人がいないと、「誰でもいいから助けて」になってしまうのです。この学校にいれば、私たちも手伝えるのですが、そうでなければ、なかなか望むようには行かない場合も出てきます。

 もっとも、私たちがいくら考えても、すでに弦を放れているわけですから、思いも寄らぬ事が起こらないとは言い切れません。それはそうなのですが、避けられるものなら、避けられる道を歩み、ある程度の技術を身につけ、次につなぐという生き方をしてもらいたい…のですが。

 さて、この卒業生です。彼は、今、横浜国立大学の研究生です。今年、修士を受験するといっていましたが、本当に日本語が下手。下手なのです。自分でも悲しいでしょうね。そうは思うのですが。下手なのです。

 言語の場合、特に初期教育というのは大切です。彼の場合も、中国で「飛び飛びに」日本語を勉強していたので、日本に来て、日本語を勉強しても、すべて「中途半端」になってしまうのです。「みんな聞いたことはあるような、ないような」「わかるような、わからぬような」。しかし、「聞き取れない」、「話せない」という二重苦で、ここにいる時も、「しょうがない。大学院に行けば、専門しか勉強しないわけだから、その専門を通して、日本語を勉強すればいい」で、過ごしていたのですが、やはり下手は下手。
 
 面と向かって「下手だ。下手だ。どうしてそんなにまだ下手なのだ」を連発してしまいましたから、困ったでしょうね、彼も。しかし、いい青年ですから、ニコニコして「ええ、下手なんです」。でも、「専門の授業はみんな解ります」。こう言われては、もう不満の持って行きようがありません。しかも、先生はとても親切にして下さるそうですし。

 いい大学は、先生も留学生に親切です。在校生達も、そんな「いい大学や専門学校」に進めたらいいのですけれど。

日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする