日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

夏休みが終わって…「ついて行けるかしら」と悩まずに。

2008-09-03 07:50:55 | 日本語の授業
 一昨日、二人のかわいいお嬢さんが、お母さんと一緒に、久しぶりにやってきました。

 夏休みというのは、日本語学習を続ける場合の、一種の「鬼門」と言えましょう。この時に帰省したり、小学校が休みだから、家を空けられないという理由で、日本語の勉強を中途であきらめてしまう生徒さんが、いつも何人か出てしまうのです。

 このお二人のお母さん(二人一緒に、日本語を勉強したいと申し込みに来た)のうち、お一人がそうで、「日本語の勉強は、続けなければならないことは分かっている。しかし、(休んでいた分)追いつけるだろうか。一クラス、レベルを下げた方がいいのではないだろうか」と、悩んでいるうちに、また一週間が過ぎてしまったというのです。

 もうお一方は、8月も勉強を続けていましたが、夏休み(8月11日から15日)が開け、新学期になったからの、二週間目からこの日まで(そして、今も)お休みしていたのです。

 「小学校が休みに入ってから、娘さんがいるので、家を空けられない」と、この方は前に相談されましたので、「娘さんも連れてきたらいい」と、学校の方でも答えました。「この方の娘さんなら、躾もきちんと出来ているだろうから、他の学生の迷惑になることはないだろう」と思って勧めたのですが、思った通り、この子は、静かにお母さんのそばで、本を読んだり、漢字の練習をしたり、絵を描いたりしていました。それどころか、隣に座っていたインドの学生の「小さな漢字の先生」になり、彼女が来ないと、この学生は「先生、今日は『小さな先生』がいないので、勉強が出来ません」などと言っていたほどで、この子はすっかりクラスに馴染んでいました。

 こういうお母さん方とは違い、お嬢さん方のほうは、天真爛漫に日本を楽しんでいます。この中の一人は「一日、富士山旅行」にも、お母さんと同行しましたし、学年も二年生くらいでしょうか、まだまだ、学校だけで日本語が上達するレベルなので、それほど心配もないのでしょう。お母さんは、中国語の漢字を忘れないようにと、中国語の本ばかり与えています。

 もう一人のお嬢さんも、この子より少し上、しかし、問題はなさそうです。

 この子達のように、親御さんの学歴が高ければ(小中学校レベルの学習内容なら、自国の言葉で、自分の子供に教えることができる)、異国での生活上の問題は、日本語だけと言うことになります。それも、友達作りや先生の注意が聞き取れるほどの、日本語が習得出来れば、ことはすみます。

 お母さんの発音のチェックや、「こういう時は、こう言うの」と厳しい指導が、娘さん方の方から、なされていました。親御さんの方ものんびりしたもので、「あはは、そうか」で終わっています。

 このお二人は、「今のクラス」で「続けるかどうか」を、まだ悩んでいるようで、もう少し考えるとおっしゃっていました。が、私たちの目から見ると、「中級」に入っても、「初級」の復習をやらないわけではないし、いえ、それどころか、「初級」が「中級」の基盤となっているわけですから、嫌になるくらい復習を繰り返しますので、そのときに取り戻せばいい…のですが。けれども、全体が見えないと、「今の状態」が大きく映ってしまい、落ち着かないのでしょう。

 もっとも、それでもいいのです。ゆっくりやりたいという「中国人」の方もいることですし。もし時間があるようでしたら、お弁当を持ってきて、午前の「中級(今週で『初級』は終わりです)」が終わってから、ついでに「初級Ⅰ(これも、もうすぐ『初級Ⅱ』に入ります)」を聞いたらいい。いずれにしても、来年の「一級テスト」の前までには、「中国人と非漢字圏の上級者」編成のクラスになるでしょうから、もし続けていれば、同じクラスになるということになります。

 漢字圏の方は、漢字の意味から、文章を読み取るので、全く日本語を習ったことがない人でも、20%か30%は、内容の把握が出来ます。ただ、多くとも30%程度で終わりますし、その上、「聞き取れない」、「話せない」という二重苦が伴いますので、日本で仕事をする場合、却って困るということにもなりかねません。

 「知的レベルの低い」漢字圏の学生の場合、それを誤解して、「勉強せずとも、自分にはわかる」と思いこんでしまい、最初から最後まで、ほぼ「同じ点数」だった人もいるほどです(もちろん、ひどい点数です)。

 何事でもそうですが、最後の「10点、20点の分」は、決して「なおざりにして」いいものではありません。この最後の「10点、20点」分の努力を怠ると、結局「文章の理解」も出来ず、「ヒアリングの意味」もとれず、「話せ」もせずで終わってしまうのです。

 何事でも、「詰め」は大切です。だいたい「一級レベル」で「中学生レベル」に達したことになりますから、後は一人一人の「母語のレベル」に応じて、日本語が上達していくということになります。

 つまり、どの国の言葉でもいいのですが、「思考言語」或いは「学習言語」というものが、「ある程度の形」で自分の中に備わっているかどうかということなのです。いくら「ペラペラに話している」ように見えても、文章が「読めない」という人も少なくないのです。

 自分は「母語は捨てた。日本語で生きる」などと言っている学生さんも、時に入るのですが、そういう学生さんでも、日本語能力が高い方は、ただ本人が気づいていないだけで、だいたい彼らの「母語のレベル」も高いのです。

 多分、そこが、義務教育の年齢に、国を出てしまったお子さん達の課題なのでしょう。小学校一・二年だったら、母語のレベルもしれたものですから、かまわないと思うのですが、「思考言語」を育てていかなければならない大切な時に、それまでの「思考言語」から切り離されたしまった場合、大変なことになります。そこで、「『言葉で考える』という習慣」が、一度「プッツン」と切れてしまうのです。

 「思考」や「感情」が、言語を持たぬ「大河」のようになってしまい、いつか「堰」が崩れてしまうのではないかと、彼らを見る度に不安を募らせてしまいます。

 だれかが言っていましたが、「『感情』も言語である」と。「思考」するためにも、「喜怒哀楽」を表すためにも、言語は必要です。

 大人であっても、周囲との間の「意思疎通を図る」上で、「言語」という表現手段を持たぬと、人は、苦しいものです。「だれかに分かってもらいたい、だれかと語りたい」という気持ちの強い人の方が、早く上手になるというのが、その証拠ではないでしょうか。「私は、それが嫌いです」とか「嫌、したくないです」など、たとえ稚拙と感じられるような文であろうと、それを繰り返し、使っているうちに、ある日、突然、「母語」と「日本語」の垣根がとれて、母語のように日本語を操ることが出来るようになるのです

 それはさておき、何事によらず、いったん始めたことは、一応の目的が達成されるまで続けた方がいいのです。特に「言語」は、短期間に「ガーッ」と馬車馬のように、覚え込んでしまった方がいいのです。その方が、お互い楽ですし、楽しいし…楽しければ、上達するものですから。

日々是好日
コメント
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