日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

皆で「協力する」ということ

2008-09-08 08:15:56 | 日本語の授業
 不思議なことですが、日本人(大人)においては当たり前のことで、他国の、また他民族の人たちにわかりにくいことに一つに、「連帯責任」とか、「チームプレー」とかいうことがあります。

 私にしても、子供の頃は、こういう事がよく解りませんでした。それで、「連帯責任」とやらいう理由で、罰掃除をやらされたり、叱られたりすることが不服でたまりませんでした。そういう時、子供は皆、口にこそ出さね、「私はちゃんとやっているのに…(どうしてAちゃんと一緒に叱られなければならないんだ)」と、呟いていたと思います。

 けれども、学校で、そういうことが行われていたのは、「一人が不始末をしでかしたら、皆でカバーしなければならない。また、そんな不始末をしないように、注意してやらなければならない。なぜなら、同じクラスメートなのだから」。つまりは、こういう理屈があったからなのです。

 この理屈を、「『日本』では、子供のうちに『身体』で学んでおかなければならない」ということが、はっきりと分かったのは、やはり社会に出、仕事を始めてからでした。クラブ活動で、運動部に入っていた人達は、多分その中で体得していたでしょうが、そうでない普通の子供には、わかりにくい理屈だったのです。身体は(そうしつけられていますから)、そう動きますけれど、頭では一万回ぐらいも「嫌だ。嫌だ」を叫んでいたのです。

 しかしながら、実際に働いてみると、「誰もが、全部を、一人でやりこなすことは、出来ない」と言うことに気がつきました。ベテランであろうと、不得手な分野はある。新卒はなおさらです。教育係の人やベテランに、折につけ、教えてもらわなければ何も出来ないのです。

 それはまた、そのベテラン達も「かつて、歩んできた道」でした。教えてもらった人が「ありがとうございます。助かります」と言うのは当たり前なのですが、そこには同時に、「『次』は自分が教えなければならない」という暗黙の了解もあったと思います。だから、先輩達も、無報酬で教えてくれ、会社もそのために「一見無駄に見える時間」を、新卒の教育のために割いてくれたのだと思います。

 けれども、もし、「教えてもらいっぱなしで、すぐにやめる」というのが、普通の行為になったとしたら、誰もそんなことはしてくれなくなるでしょう。会社もそんな(何も出来ない、信用できない)人間を雇ったりしなくなるでしょう。できあがっている(ある種の仕事だけ)人間以外は雇わなくなるでしょう。

 その方が、ずっと安くつくし、「成果も、早く『目に見える』」のです。「教育」というのは、「お金」も「時間」もかかります。その上、相手は「未知数」の、しかも「未経験者」です。手っ取り早く、「出来る」人間を雇い、だめだったら、すぐ捨てればいい。そういうドライな関係の方が、楽でいい。「育てる」には、何年もかかります。

 その上、毎日のように相対しているわけですから、「情」も湧きます。その人に対する「義務感」やら、「責任感」まで感じるようになってしまうかもしれません。そんな煩わしい関係など、見ずに済む。結局、「人間」ではなく、「部品集め」の方が、会社にとっても楽で経済的なのです。そうではないでしょうか。

 日本に来たばかりの学生達は、特に途上国からき他学生は、「どうして、アルバイトを休む時、先に連絡しなければならないのか」と不審に思うようです。「休んだら、その分のお金は引かれる。それでいいじゃないか」と。

 日本の会社や組織では、人件費が高いということもあって、余分な人を雇っていられるほどの余裕はありません。あっても、他の「意味のあることに」使いますし、もし、そう見えたとしても、それなりに必要があってそうしている場合が多いのです。それ故、一人でも急に休んでしまうと、だれかが、他の人がその人の分まで、やらなければならなくなってしまいます。割を食ってしまうのです。チームを組んで仕事をしているわけですから、いわゆる「連帯責任」という形になり、本来なら、少し余裕を持って仕事が出来たはずなのに、ぎりぎり状態でしなければならなくなりますから、働いている人は大変です。「休んだら、給料が減る。それで、終わり」というような、簡単なことではないのです。

 アルバイトの時に、この理屈が分かっていないと、大学や専門学校を卒業した後、日本の会社で働き始めても、うまくいきません。

 外国人から、今でもよくこんな話を聞くのです。「今の会社の人はうるさい。給料のいい会社があったら、そっちに移るつもりだ」。もうこうなっては、日本の会社の、いわゆる「10年先を見据えて、未熟者を、『身銭を切って』育てる」という、やり方は通じなくなってしまいます。

 私は、彼らを見ているうちに、日本で大学まで進めるくらいの能力があるのなら、日本語学校で学んでいるうちに、その常識「会社に勤め始めた時は、(少なくとも、三年間は)君たちは、使い物になっていないのだ。それを、数ヶ月の社会人教育や、その後数年の実務教育で、会社が『身銭を切って』一人前に育て上げてやって居るのだ。その間、会社が将来を見、身銭を切っているのであって、もし、その前に止めたりするのが、普通になるのであれば、その分を自分の金で学んだ人しか、会社は採用しなくなる」ということまで、教え込みたくなってしまうのです。

 もちろん、彼らに、これらを告げたとしても、腹の底におちて行くには時間がかかるのでしょうが。

日々是好日
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