今朝のニュースでは、「まだ、蝉が鳴き止まない」なんて、言っていましたが、この学校の周りでは、もう完全に「鈴虫」の澄んだ音色が、あたりを圧倒しています。
昨日の帰りもそうでした。小学校に沿って自転車を走らせていると、木々の上からまるで蝉時雨のように「鈴虫」の鳴き声が降ってきたのです。オス同士の鳴き声が、お互いに響き合って、果ては木々にぶち当たって、エコーとなり、耳をつんざくように響いていたのでしょう。
もうこうなってしまっては、「秋なれや~」などと、風流を気取るどころではありません。急いで、この「鈴虫の声のトンネル」から、逃げ出してしまいました。
風流と言えば、高校で『源氏物語』を習った時だと思うのですが、なぜか、「萩、即ち、秋の『物寂しさ』、秋の『はかなさ』である」と、頭の中にたたき込まれたのです。本当にそう信じ込んでいたのです、実物を見るまでは。実物を見るまでは、そういう文章に出会う度に、「ああ、あの…」と、自分のイメージ通りの「秋草」を思い浮かべていたのです、その情景に。
ところが、ある友人のお宅で、いわゆる「萩の花」を見てしまいました。観賞用だったからでしょうか、花自体も大きく、しかも、その大きいのが、ワッサワッサと滝のように茎について、垣根越しに溢れていました。きれいはきれいでしたが、それはもう既に「日本の秋草」では、なかったのです、私のイメージにおける。
何も、「『いにしえ』のものが、すべていい」というわけではありませんが、このショックは、山に通うようになり、野生のものに出会うまで、続きました。山に自生する「野生の萩」は、心に描いていた通りの、貧弱なものでした。花もどこかのエンドウ豆みたいなもので、これなら、荒れ果てた屋敷に咲いていてもおかしくないし、これを見て無常を感じても「ちっとも不自然ではない」と思えたのです。
「文字の世界」は、もともとこういうものでした。「文字に書かれたもの」を、読むことによって、皆が自分なりのイメージを抱き、それでよかったのです。また、それ以上の「なにもの」でもなかったのです。だから、読解力云々というよりも、各人の生い立ちなり、地域の歴史・文化が、その「理解」に大きく作用しました。その上、時の流れという「時代差」まで加わりますから、「時間」まで、その「色つけ」に加わることになりました。
だから、「文学」によらず、「『偉大なる』芸術」というものは、どんどん「豊かさ」を「膨らませ」、もはや、「誰のものでも」、「どこの国のものでも」、「どの民族のものでも」、なくなっていったのでしょう。
けれども、今は「映像の社会」ですから、「映像」で見て、しかる後に「理解する」というルートをたどってしまいます。「文化の共有」というやつです。
現代のように、「普通の人(冒険家や金満家ではない人です)が行けるところが広がり、いろいろな地域・国家の人と出会い、時には些か深いつきあいをせねばならなくなった場合、もちろん、「映像」は大きな助けとなります。先に心の準備をすることができますから。イマジネーションが「不足がち」な人でも、その「才能のある人」の力によって、あたかも自分でそのイメージを作り上げたような、そういう感覚を味わうことができます。
これは、ある意味では、恐ろしいことです。既製服を手軽に身にまとうようなもので、それが「精神世界」においても簡単になされてしまうのですから、「『想像力』の構築」なんて、「おらび叫ぶ」こと自体が、「ケッケッケ、猫の毛、お猿のお尻は真っ赤っか」ということになってしまいます。
今の日本を見ても、テレビや映画、コンピュータの映し出す世界を、生まれた時から知っている人達ばかりですから、もう、何が「書かれたものを通して、自らがイメージしたもの」なのか、「映像を通して、手軽に頭の中に描いているもの」なのか、わかりません。
ただ、動物たる人間は、いくら映像で「闇は怖いぞ」といったところで、「体験」しない限りは、どこか高をくくってしまうところがあります。
しかしながら、それは一つのすばらしい「きっかけ」をあたえてくれるもので、現代人は「これを愚かな事」とせずに、「失ってはならない本能」と思い、「体験」を増やしていかねばならぬのではないでしょうか。それが、なによりも「想像力」を豊かにする早道だと思えるのです。
日々是好日
昨日の帰りもそうでした。小学校に沿って自転車を走らせていると、木々の上からまるで蝉時雨のように「鈴虫」の鳴き声が降ってきたのです。オス同士の鳴き声が、お互いに響き合って、果ては木々にぶち当たって、エコーとなり、耳をつんざくように響いていたのでしょう。
もうこうなってしまっては、「秋なれや~」などと、風流を気取るどころではありません。急いで、この「鈴虫の声のトンネル」から、逃げ出してしまいました。
風流と言えば、高校で『源氏物語』を習った時だと思うのですが、なぜか、「萩、即ち、秋の『物寂しさ』、秋の『はかなさ』である」と、頭の中にたたき込まれたのです。本当にそう信じ込んでいたのです、実物を見るまでは。実物を見るまでは、そういう文章に出会う度に、「ああ、あの…」と、自分のイメージ通りの「秋草」を思い浮かべていたのです、その情景に。
ところが、ある友人のお宅で、いわゆる「萩の花」を見てしまいました。観賞用だったからでしょうか、花自体も大きく、しかも、その大きいのが、ワッサワッサと滝のように茎について、垣根越しに溢れていました。きれいはきれいでしたが、それはもう既に「日本の秋草」では、なかったのです、私のイメージにおける。
何も、「『いにしえ』のものが、すべていい」というわけではありませんが、このショックは、山に通うようになり、野生のものに出会うまで、続きました。山に自生する「野生の萩」は、心に描いていた通りの、貧弱なものでした。花もどこかのエンドウ豆みたいなもので、これなら、荒れ果てた屋敷に咲いていてもおかしくないし、これを見て無常を感じても「ちっとも不自然ではない」と思えたのです。
「文字の世界」は、もともとこういうものでした。「文字に書かれたもの」を、読むことによって、皆が自分なりのイメージを抱き、それでよかったのです。また、それ以上の「なにもの」でもなかったのです。だから、読解力云々というよりも、各人の生い立ちなり、地域の歴史・文化が、その「理解」に大きく作用しました。その上、時の流れという「時代差」まで加わりますから、「時間」まで、その「色つけ」に加わることになりました。
だから、「文学」によらず、「『偉大なる』芸術」というものは、どんどん「豊かさ」を「膨らませ」、もはや、「誰のものでも」、「どこの国のものでも」、「どの民族のものでも」、なくなっていったのでしょう。
けれども、今は「映像の社会」ですから、「映像」で見て、しかる後に「理解する」というルートをたどってしまいます。「文化の共有」というやつです。
現代のように、「普通の人(冒険家や金満家ではない人です)が行けるところが広がり、いろいろな地域・国家の人と出会い、時には些か深いつきあいをせねばならなくなった場合、もちろん、「映像」は大きな助けとなります。先に心の準備をすることができますから。イマジネーションが「不足がち」な人でも、その「才能のある人」の力によって、あたかも自分でそのイメージを作り上げたような、そういう感覚を味わうことができます。
これは、ある意味では、恐ろしいことです。既製服を手軽に身にまとうようなもので、それが「精神世界」においても簡単になされてしまうのですから、「『想像力』の構築」なんて、「おらび叫ぶ」こと自体が、「ケッケッケ、猫の毛、お猿のお尻は真っ赤っか」ということになってしまいます。
今の日本を見ても、テレビや映画、コンピュータの映し出す世界を、生まれた時から知っている人達ばかりですから、もう、何が「書かれたものを通して、自らがイメージしたもの」なのか、「映像を通して、手軽に頭の中に描いているもの」なのか、わかりません。
ただ、動物たる人間は、いくら映像で「闇は怖いぞ」といったところで、「体験」しない限りは、どこか高をくくってしまうところがあります。
しかしながら、それは一つのすばらしい「きっかけ」をあたえてくれるもので、現代人は「これを愚かな事」とせずに、「失ってはならない本能」と思い、「体験」を増やしていかねばならぬのではないでしょうか。それが、なによりも「想像力」を豊かにする早道だと思えるのです。
日々是好日