日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

自分の力で「相手を『見る』」ということ

2008-09-04 08:14:55 | 日本語の授業
 この日本語学校は、とても小さな学校です。もともとは、中国の学生達のために、日本語を教えたいと思って始めたのですが…。

 しかしながら、この行徳という地域を基盤にしているからでしょうか、この地域、或いは近くの地域に住む、様々な国の人達から、「自分の身内を呼び、大学に行かせたい」ので、「この学校に通わせたい」とよく言われます。

 彼らの子弟の場合は、「短期ビザ」や「家族滞在ビザ」が、比較的楽にとれますので、一度来日してもらって、ここで「日本語の勉強」をしてもらい、様子を見ます。

 時間を守ることが、出来るかどうか。言われたことを、やることが出来るかどうか(約束が守れるかどうかですね)。それから、ここは、「日本語学校」ですので、「日本で働くために、この学校を『利用』したい」という様子が見えた人は、断っています。「目的が違う」わけですから、「他の学生と『同じように』は、勉強」できません。

 もちろん、「日本語を学びたい」、「日本で大学に行き、国で勉強できないことを学びたい」という「やる気」がある人は(がんばりがききますから)、私たちも「叱咤激励」しながら、教えていきます。まずは、「言葉にはいたしがたい」ことながら、その人の「やる気」を見るのです。

 国によっては、「(自国で)日本語を学ぶことができない」場合もあるのです。それで、日本にいる三ヶ月の間に、「4級程度」には、なってもらいたいというのが、私たちの希望なのですが。こういうことを試みるようになって、大きな課題があることに気づきました。

 はじめは、それほど、大きな問題とは思っていなかったのですが、国や部族によっては、それが、不可能に近い場合があるのです。

 アフリカから来た人の場合、「(当地では)日本語を学ぶことが難しい」というのは本当だと思います。ただ、「日本式の勉強ができない」のです。「書かない」のです。それから、「時間」が「守れない」のです。

 一日に普通は「9時から12時半まで」の午前のクラスと、「1時15分から4時45分」の午後のクラスがあるのですが、「何にもできない・日本のことを何にも知らない」状況を考え、一日中面倒をみました。もう、手取り足取りで…。この二人だけで疲れ果てるくらいに…。

 そして、ビザが下りずに、一度帰って、また来たのですが、「日本語を勉強したい」「日本で大学へ行きたい」と言いながら、一ヶ月ほどもふらふらして、学校に来ません。前には、こんな状態では、他の国の学生と一緒にできないだろう。かわいそうだから、たくさん時間をかけて、やったのに、その分を、こうやってふらふらされていたのでは、何のために、こちらがあんな苦労をしたのかわかりません。何度も何度も電話し、彼女らの兄弟を呼び、「話が違うじゃないか」と責め立て、やっと来ても、時間通りには来ない。授業が始まっているのですから、他の学生の迷惑です。

 この学校で勉強したいと言うから、「では」と言うことで、「スワヒリ語」の漢字(4級)の説明も作りましたし、他の学生の二倍三倍の精力と時間を費やしました。けれども、今のところ、「『ドブに捨てた』のと、同じ」という、空しさしか感じられません。

 私は、中国に留学している時に、アフリカ諸国の人を多く見ました。彼らと同じクラスだったこともあります。運動場で一緒にサッカーや、バレーボールに興じたこともあります。彼らはほぼ全員が「『国費』留学生」でした。私たちのように「私費」の留学生ではなかったのです。それでも、勉強しない人達が大半でした。サッカーをしている時も、ボールを取ろうと、(女がボールを持っている場合でも)体当たりしてボールを取る人もいました(当然のことながら、その女性は吹っ飛びますね)。

 そのときに、クラスメートのアフリカ人男性から、「彼らとは一緒にスポーツをしない方がいい」と言われました。「アフリカと言っても、たくさんの国や部族がいる。自分たちだって、『選んで』つきあっている」と。

 「アラブ系」の男子学生には、そういうところは全くありませんでした。「女子学生」が、蹴りやすいボールをくれるし、「女子学生」がボールを持っていれば、ほとんど手(足)を出さないほどでした(この時に、日本にいた時の『イスラム教徒』に対する『偏見』は完全に消えました)。

 日本人の悪いところで、「人種差別はいけない」・「偏見はいけない」とか考えてしまうのです。それで、そういう目に遭っても、「自分が何か悪いことをしたのかな」とか、「何か理由があったのではないだろうか」なんて、反省したりするのです。

 私は、クラスメートの、その言葉に「はっ」としました。「何も考えていなかったんだ、彼らは。ただボールが欲しかったから、取った。相手が誰でもかまわないんだ、子供でも、女でも」

それに気づいてからは、非常に「シビアに」相手と、接することができるようになったと思います。

 まず、「『偏見をしているのではないか』とか、『差別』をしているのではないか」と常に自分を省みる習慣を捨てたのです。「真正面から、相手を見る。どんな人かを見る。それから、どう対すべきか考える」ことにしたのです。

 そう考えるようになってからは、「彼らとのつきあい」が、楽になりました。「相手が何も考えないでいるのに、『いろいろ考えてやる』のは、『損』だ」ということに気づいたからです。よく考えてみれば、本当に当然のことです。

 自然体になれば、「土俵」は相手と同じです。相手は、そんなこと、何も考えていないのですから。自分たちに都合が悪くなったら、「差別だ。差別だ」と大声で喚くのがいても、知らん顔です。いい人だったら、話すし、みんなで一緒に遊びもする。けれども、「一緒に出来ないな」と思ったら、素直に自分のその感性に従う。

 ですから、同じクラスの、二人のアフリカの男性とは、みんなで、一緒によくスポーツをしたり、食事会をしたりしました(私たちのクラスは本当にみんな仲がよかったのです)。後で聞いてみたら、彼らは同じ「国費」と言っても、「(彼らの国の外務省が派遣した、すでに外交官の卵という『別格』の)国費」だったのです。

 今、ここで、日本語を教えています。多分、今の自分には、「偏見」は、ないと思います。ただ、今、ここで、日本語教師をしていますから、その「判断基準」は、どの国からの人でもかまわないが、「日本語を、ちゃんと『勉強する気』があるかどうか」なのです。その気がない人は、来て欲しくありません。

「ひらがな」や「カタカナ」をマスターして日本に来た場合、「漢字圏」であろうが、「非漢字圏」であろうが、「初級クラス」は、一緒です。

 ただ「ひらがな」や「カタカナ」をマスターしていない場合は、「漢字圏」の学生とは、一緒にやれません。「聞く」・「話す」は、一緒に出来ても、「書く」・「読む」が一緒に出来ないのです。そのときは、4月に来たのなら、「7月生」と一緒のクラスで学んでもらうことになります。

 日々是好日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする