日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

日本の詩歌を教える

2008-09-11 07:54:56 | 日本語の授業
 今朝は、また自転車での通勤に戻ってしまいました。急に歩くというのは、やはり、あまりよくはありませんね。何でも少しずつ、少しずつ。焦りは禁物です。

 昨日、一昨日と秋の虫の音を楽しみながら、学校へ来たのですが、今日は自転車で、ゆっくり漕いでも、それでも、歩くことに比べれば、ひとっ飛びで学校へ着いてしまいます。

 歩いている時には、それほどだとは思わなかったのに、早朝の虫の声には、力がありません。それは、「秋の歩みの鈍さ」のせいなのでしょうか、それとも、「失われ行く秋」と見、秋自体が薄れていくからだと思った方がいいのでしょうか。昔に比べ、「夏」の力が増し、「冬」の力が弱まり、それと共に「春」と「秋」が、ズンと「存在感をなくしている」のではないでしょうか。

 「今の東京の気温は、西郷さんや大久保さんが生きていた頃の鹿児島の気温である」というのを聞いたことがあるのですが、「温暖化のスピードが増した、どうにかせねばならぬ」と言われるよりも、ずっと現実味を帯びて聞こえますね。

 実は、私も、今から30年ほども前に、鹿児島へ行ったことがあるのです。その時、「これが桜島か、これが薩摩の暑さか」と不思議な感傷に浸ってしまいました。薩摩は、九州人にとっても特別な存在です。同じ九州であるとはいえ、古来から、熊本の南部から薩摩にかけては、少々別格なのです。

 人間に「優しい」気候ではないのです。九州でも東北部は、住人に、「間が抜けていてもよい、独りよがりであってもよい」と、そうであることを許してくれているような気候なのですが、あそこは違うのです。「気候」が、或いは「自然」がと、言った方がいいのかもしれませんが、人と対立しているような、人を支配しているような、そういうある種の畏れを抱いて見ねばならぬといったふうな存在なのです。

 もちろん、自然というのは偉大で、畏怖すべき存在であります。人間なんぞは「蟻ん子」のようなものですから、ただ見上げて畏れ入っていればいいだけなのでしょうが、それでも、地域によっては、畏怖心というものも薄らいで、やさしく包まれているような錯覚に陥らせてくれるようなものでもあるのです。

 その、畏怖すべき気候を有する、鹿児島と同じように、東京がなるというのは、恐るべき事であり、うろたえざるを得ません。

 「今の秋」は「失われて」しまうのでしょうか。それと共に、詩歌に残された情感も、感じ取ることが出来なくなってしまうのでしょうか。

 実は、近頃、若い頃には感じ取れなかった、「自由律の俳句」に、少々心を奪われているようなのです。

 以前は、「季語」のない詩歌は、「歴史」という「時間の幅」を拒否しているようで、どこか親しめませんでした。それに、「それは『散文』と『詩』との狭間にあるものであり、成功すれば『詩』になりうるものであるけれども、失敗したら無様なものでしかないのではないか」などと、生意気なことも考えていたのです。

 しかし、これも歳なのでしょうね。「『時間の幅』など、どうでもいいではないか。『技巧』などどうでもいいではないか。そのときの『驚き』や『喜び』、そして、何よりも『発見』を綴れば、それが人々の心を呼び覚ます『共鳴の波』となり、人々の心を『感動で揺さぶる』のであって、それ以上のものを要求すべきではないのではないか」と、思い出したのです。

 本当に、こんなものは「一瞬の感動」であり、「感傷」であり、また、「苦味」でしかないものなのです。平凡な人生の「切り取られた一瞬」でしかないものなのです。大上段に振りかぶって「やあ、やあ、我は感動したり」などというようなものではないのです。ただそれだけのものであり、それ以上の何物でもないのです。

それなのに、「それなのに」です。どうして、人は読むだけで心を揺り動かされ、追体験できたり、思い出に浸ったりすることができるのでしょう。

 「秋が来た 雑草に座る」
 「さみしい風が 歩かせる」
 「この旅 果てもない つくつくぼうし」
 「山のするどさ そこに 昼 月をおく」
山頭火のこんな、不思議でもなんでもない言葉とその配列。また
 「咳をしても ひとり」
の放哉。

 特に、放哉のこの句には、私には、思い入れがあります。北京の雑踏の中で、歩いていた時のことです。周りは人、人、人。そして、私もその人の波の中で、ただせわしげに歩いていた一人でした。何気なくいつものように歩いていた、その一瞬に、この言葉が浮かび、この句が突然、ストンと、腹の底に落ちたのです。

 「句というものは、理屈でわかるものではない」ということが、初めてその時、わかりました。

 けれども、これも、「彼らと同じように、山を歩いたことがある、彼らの見た月を見たことがある。彼らの感じた風を感じたことがある」であって初めて、「読むことで体感できる」ものではありますまいか。

 日本人の私ですらそうです。「理屈なし」の理解には、それなりの人生の長さと、それに付随した歩みが必要なのです。

 四季折々の、日本の山野を歩くことなしに、それを読ませると言うことの不条理さを、感じずにはいられません。

日々是好日
コメント
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