ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

雄鶏退治

2007年03月30日 22時37分07秒 | 鶏の話
18羽の鶏のうち雄鶏は6羽!
それで、雄鶏が多すぎるので、今日はついに雄鶏を2羽退治した。
これで鶏をさばくのは何度目だろう・・・。
2~3日前から覚悟を決めて気持ちの準備をしているので、当日になると動揺したり躊躇したりすることはない。でもやっぱり鶏を吊るし頚動脈を切るときは平常心ではいられない。大きく深呼吸をして、息を止めて切る。

夕食に早速今日の鶏をありがたくいただいた。柔らかいけどしっかりとした歯ごたえ。でもどうしてもこの鶏のことを思い出していけない。

それからボリスブラウンの卵を4個まとめて巣篭もりウコッケイに抱かせた。
うまくいったらボリスとワーレンのあいの子が生まれるだろう。
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今農園は花盛り

2007年03月28日 05時45分07秒 | 田舎暮らし
今農園は花盛り

梅は終わったけど桜が咲きボケも咲き出した。
ボケの花は梅や桜よりも濃厚で野暮ったく熟女の雰囲気がある。
ほったらかしで、しょっちゅう山羊にいじめられているけど毎年律儀に咲いてくれる。
我が家のボケは園芸種だとばかり思っていたけど、どうやらクサボケらしい。

スミレも咲いている。スミレは恥じらいを持った少女の雰囲気で、農園のあちこちに咲き誇っている、
というよりもそれらしくひっそりと咲いている。いろんな種類のスミレが咲いてるけど、スミレは種類がとっても多いのでよくわからない。

スイセンは今が盛り。今までほったらかしにしてたけど去年初めて掘り起こして農園のあちこちに植えた。
それで今農園はスイセンで覆われている・・・といいたいけどぽつぽつと咲いている。
でもきっと5年後にはここはスイセンの郷になることだろう。

ネコヤナギも咲いている。ネコヤナギは橋の袂で男を誘う女の雰囲気。
沢によく似合う。まもなく葉が伸びてきて山羊が大喜びする。柳の葉は山羊に大好物だから。

今まで枯れ草や竹の葉ばかり食べてきた山羊もこれからは新しい草を一杯食べられる。
山羊の季節がやってきた。

 春草の 年の始めの 若菜食む
 牧場の山羊の 笑み 跳び 跳ねる

 (「春草の 年の始め」は難波の宮で発見された木簡にあったもの)
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究極の日本料理

2007年03月27日 19時04分12秒 | 雑感
最後の晩餐で最後に食べたい究極の日本料理というと・・・
多分、お茶漬けか卵かけご飯か納豆ご飯を希望する人が多いのじゃないか・・・という気がする。
でもどれも嫌いじゃないけどそんなに好きでもない。

多分最後に希望するものはご飯に鰹節を振りかけてしょうゆをかける、鰹節ご飯を希望するだろう。
あるいはご飯に味噌をつけて食べる味噌ご飯を希望するかもしれない。
子供の頃は味噌に砂糖を混ぜてご飯にかけて食べるのが好物だった。

そういえば鰹節ご飯は昔飼ってた猫が大好物だった。
どうも味覚は猫のレベルから少しも進歩していないようだ。
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ひょうご在来種保存会

2007年03月26日 11時39分38秒 | 田舎暮らし
先日、ひょうご在来種保存会の”伝統野菜とともに過ごす”イベントに参加した。
在来種を作っている農家の話や試食会などが行われた。
場所は姫路文学館の敷地の一角の「望景亭」純和風の邸宅。
誰かの別荘だったらしい。縁側から庭越しに姫路城が見える。
姫路城はちょっと離れてみるのがよい。
近くから見ると映画のセットみたいであまりよくない。
そしてそのゆったりした雰囲気に落ち着いて話を聞くことが出来た。

ひょうご在来種保存会とは兵庫の伝統野菜を自家採取し育てることを目的として作られた。
まず生産者の話。
岩津ねぎ、葉山葵、にんにく・播磨王、海老芋を作っている人の話をきいた。
海老芋は去年、海老芋試食会で食べたおなじみのもの。生産者の岡田さんが急折されて奥さんが出席されていた。
岡田さんはかって一大産地だった播磨地区の海老芋をほとんど一人で守り続けてこられた。
今年は種芋があるので奥さんが守るということだけど、来年からはわからないという。
ぜひ続けてほしいと思う。

岩津ねぎは下仁田ねぎ、博多ねぎ、と共に日本の3大ねぎのひとつで全国的に有名・・・らしい。
(もっとも3大・・・何とか言うのはたいてい全国的にはいろんな3大バージョンがあり、あてにはならないけど。
~ほんとうに3大・・・なら、ごめんなさい!)
これは、ひょうご在来種保存会の会長の山根さんがもっとも力を入れてきた野菜でもある。
そして3年前、山根さんから種をもらって育てたけど、痩せた土地に蒔いたこともあってぜんぜんだめだった。
こんなことならもっと大切に育てればよかった。
もっと海老芋もそうだけど、育てるのにとても手がかかる。こんな野菜は苦手だ。
手がかかるから子供があとを継ぐのを嫌がり、農村が衰退していく。
消費者がねぎの白い部分を好み、海老芋の海老のように曲がったのを好むかぎり、農家の重労働は続く。
九州にいたころはねぎはとても作るのに簡単だと思っていた。
九州のは小さいねぎで、葉の部分を食べるから、土寄せをして白い部分を人為的に延ばす必要はなかったからだ。
消費者が自分たちの好みで農家に重労働を強いるなら、それにみあった金を出せといいたい。(~ここだけの話)

にんにく・播磨王は我が家でも、山根さんから分けてもらって以来、ずっと作っている。
これは最近の無臭ニンニクの逆をいく本来の臭みのあるにんにくで作りやすい。
~こんな野菜が好みで、我が家でも小さいながらもうまく育っている。

葉山葵は我が家の沢にも勝手に生えていて、根っこがなかなか大きくならなくてもてあまし気味だ。
でも試食で食べた葉山葵の料理には感激した。なにより酒の肴になるのがいいと思った。
これはちょっと要注意マークだぞ、と思った。
もうぼちぼち山葵に花が咲き出した。そろそろ葉っぱも食べごろだ。

昼食は、弁当と去年の海老芋試食会のときの谷勝さんの料理2種と吸い物が出た。
谷勝さんの料理はさすがだ。材料の味を生かしたあっさり味に仕上げてあるのでいくらでも食べられそう。
写真を撮ろうと思ってたけど、ちゃんとカメラも持ってきてたけど、庭の写真も、建物の写真も、庭越しに見る姫路城の写真も撮ろうと思ったけど、メモリーカードを忘れてきた。
まったくいつものことながらどじだ!
それで、のらさんの写真をのせることにする。

食事をして、庭などを散歩などして、昼からは神戸新聞の記者の話や活動報告などがあって3時過ぎに終わった。
話の中で、自家採取を禁止する動きがあるという話が出た。・・・しかしこのような話は冷静に聞く必要があると思った。
かって有機農業認定のときに牛乳や酢まで劇薬扱いされて禁止になるという話が出て騒がれたことがあった。
もちろんそんなことはなかったけど、それと同じでセンセーショナルな報道にはまず眉唾をもって望むのが正しい態度なのだ。

会は3時過ぎに終わった。10時半から3時過ぎまで、和室で座って聞くのはさすがに疲れた。
でも和室ならではのくつろいだ雰囲気と何よりも話をする人との距離が近いことがよかった。
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クラシック

2007年03月24日 17時15分43秒 | 田舎暮らし
久しぶりの雨。
畑の野菜たちは大喜びだろう。

雨の日にもやりたいことはたくさんあったのだけど、
何もやる気がしなくて、早々に家に引きこもった。
そして久しぶりにバッハの「無伴奏チェロ組曲」を聞いた。
この曲を聴くと、いつも落ち着き落ち込みますます気がふさぐ。
外の雨が余計にそんな気にさせられる。

この曲を聴くとなぜか宮沢賢治の「セロ弾きゴーシュ」を思い出す。
ゴーシュが弾いたのはもちろんこの曲ではない。
でも水車小屋でねずみを相手に弾くのに、この曲はとてもふさわいいように思える。あるいは宮沢賢治がひとりでこの曲をぎこちなく弾いていたのでは、と想像する。

ハッピーエンドで終わる「セロ弾きゴーシュ」の話は逆に人を落ち込ませ、後味の悪さを残す。
カザルスの弾く「無伴奏チェロ組曲」も人を落ち込ませる。
この曲は雨の日に一人で酒をちびりちびりと飲みながら聴くのがいい。
そしてすっかり落ち込み気分が沈んだ後で眠りにつく。

翌日、すっきり晴れ渡った空に明るい日差しが注ぐ。
さあ、畑に行くか!
とっても新鮮な気持ちになって、野良仕事が始まる。

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龍野~雛人形展

2007年03月24日 05時50分13秒 | 雑感
龍野の雛人形展を見に行った。




龍野は城下町。
市町村合併でここと同じ市になった。
古い町並みが残っている。
いつもは入れない町屋で各家に伝わる古い雛人形を展示している。
江戸時代のものから最近のものまでいろいろな雛人形や市松人形があった。



龍野は観光地だ。
でも観光客はあまり多くない。
イベントの休日でも観光客はちらほらで通りの半分はシャッターが下りている。
市では古い町並みを保存して、年に何度かのイベントも開きそれなりに努力しているけどなかなか報われない。



それは通りすがりの観光地だからかもしれない。
ここで泊まる人はほとんどいない。
ここはそうめんの産地だけど食事目的で来る人もいない。
だいいちそうめん料理を出すところはほとんどないので、観光客も気づかない。
観光だけでなく蕎麦目的で来る出石とは大きな違いだ。



龍野は他に赤とんぼが売り物だ。
赤とんぼの作詞者三木露風が生まれた街。
それで童謡の町と称している。
他に哲学者の三木清が生まれた街でもあるけど、これだけではちょっと弱い。
一度観光に来て、いい町だな、と思ってそれだけで終わってしまう。



ここは脇坂氏というどちらかというとマイナーな大名が治めていた。
一般に知られるのは忠臣蔵の事件で赤穂城明け渡しのとき受け取りに行ったくらいのものだ。
城も小さく町も大きくはないが観光地としてきれいに整ってはいる。
でもそれだけの町なのだ。
シャッターがとても気になる。



この町を活気付かせるためには何かが足りない。
温泉・・・朝市・・・名物料理・・・
まずシャッターを開けてほしい。
売るものがないなら、各家庭に眠る文化遺産を展示したらどうだろう。
そして町全体を博物館にしたらどうだろう。

晩はなお魅力がない。
それでここに泊まる客はほとんどいない。
城をライトアップなどしても泊まり客はわざわざ来ないだろう。
各家庭で手作りのぼんぼりなどを戸口に掛けておくとおもしろいのだが。

それから町の中を流れる揖保川。
ここには遠くから鮎つりに多くの人がやってくる。
そこで鮎料理などもいけるだろう。
それから花で人を呼びたい。
城の近くはもみじがきれいだ。春は多分桜もきれいだと思う(見たことないけど)
それ以外の季節も花一杯にして人を呼ぼう。

しかしそういっても急激に観光客が増えるとは思えない。
場所的に山陽線沿いでなく、姫路からローカル線に乗り換えて30分かかるのが痛い。
龍野だけの努力では無理がある。
姫新線沿線全体で集客を考えないとうまくいかないだろう
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ピーナツ

2007年03月20日 09時37分48秒 | 雑感
ピーナツは難しい。
食べだすと止まらなくなりどこでやめるかいつも迷う。
一袋の1/3も食べると後は明日にとっておこうかななんて思うけど、手や口は勝手に動き出す。
でもさすがに残り半分になるともうこれでやめようと思う。
そして最後にあとちょっとと思い三口ほどたべてやっと終わる。
それでいつもきっちり4/10残ることになる。

ピーナツを一粒ずつ食べる人がいるけど、これはみみっちくていけない。
かといって思いっきり手のひら一杯にとる人間を見ると思わず、「戻せ!」と叫びたくなる。
ピーナツは人差し指と中指と薬指と親指の4本の指で軽くさりげなくとりたい。
すると4~5個のピーナツをつかむことが出来る。
そしてそれを一度にぽりぽり食べる。

ピーナツには殻つきと皮付きと皮なしがある。
よく買うのは皮なしのそのまま食べられるものだ。
面倒くさくなくていい。皮が飛び散らなくていい。
昔はたいてい皮付きのを買った。たまに殻つきのも買った。
けれども食べた後の掃除が大変だ。いつもどこかに皮が残っている。
それに皮の残骸の山の中にたいてい何個かは隠れているのでそれを苦労して探さないといけない。
昔はそれを見つけると思わず「儲かった!」と思ったものだが今では単に面倒でしょうがない。
というわけで、最近はもっぱら皮なしのを食べる。

ただいつも迷うのだ。どれが1個あたりで一番安いのかということを。
これはなかなか難しいけど、どうも殻つきが一番高いように思う。
とするとこれはまったく理不尽な話だ。
殻もついたままの欠陥商品を高く売りつけるなんて!
逆に一番安いのは皮なしでしかもバターなどで味付けしているもののような気がする。
これまた不思議な話だ。わざわざ手をかけているのに一番安いなんて!

スーパーのビール売り場に行くとたいてい、100mlあたりいくらかと表示してあるのでどれが安いかよくわかる。
ピーナツも1個当たりいくらかという表示をしてほしい。するとどれが安いかすぐわかるだろう。
ただ殻つきのものは何個入っているか判断するのは難しいかもしれない。殻は立派だけど中身が少ない性悪のピーナツもいるからだ。
それにそうそう、ビールの表示だって問題だ。最も大切なのは量ではない質なのだ。アルコール度数のことをまるで考えてないのだ。
われわれ酒飲みにとってもっとも大切なことはどれくらい酔えるかという酔っ払い度なのだから。
そこで100円あたりのアルコール度を表示してもらいたい。
そうするとビールもウィスキーも焼酎も同じ基準で評価できる。そこでぜひ「酔っ払い度」を採用していただきたい。

ところでピーナツの話。
ピーナツは日本の田舎の畑にやってきてもう結構経っている。それなのにまだよそ者で他の野菜たちからなかなか仲間に入れてもらえない。
しょせん都会からやってきた「田舎暮らし派」の野菜だと思われている。
そこらへんはピーナツもよくわかっているので、田舎暮らし派の人間が自分たちをことさら「百姓」と呼びたがるように、
ピーナツも自分たちのことを「南京豆」と呼びたがる。
これはもちろんカボチャ(南京)にあやかって自分たちも同じように受け入れてもらおうという、涙ぐましい気持ちの現れなのだ。
でも残念ながらその気持ちは通じない。他の人は誰も田舎暮らし派の人を「百姓」とは呼ばないように、「南京豆」とはなかなか呼んでくれない。それよりももっぱら「落花生」と呼ばれる。
これは花が咲いた後つるが伸びて、土の中でピーナツが生まれるそのままをあらわしただけで、ピーナツにとっては少しも面白くないネーミングなのだ。

ところで今、野菜と書いたけど実際のところ野菜ですらない。穀類でもない。どちらかというとどうでもいいスナック菓子程度にみなされる。
ほんとうは料理にももっと使えるのにあまり使ってもらえない。田舎暮らししたいのに、もっと田舎の野菜たちの仲間になりたいのに仲間に入れてもらえない。
そしてきわめて不本意ではあるけど、柿の種でもないのに「柿の種」と称するまがい物と一緒にされて都会の薄暗いバーやスナックやキャバレーの小皿に登場させられる。
そこは「3000円で呑み放題・食べ放題!!」なのだけど、食べ放題がなんとこの「柿の種」なのだ。それも肝心のピーナツがちょっとしか入ってない!
それに呑み放題の方だって、頼んでもなかなかおかわりを持ってきてくれない。その上「ねぇ~指名してぇ」とせがまれて、指名すると、とたんにいなくなる。
ひとりぽつんと待たされて、人生の悲哀を感じ、身の行く末を思い悩む。飲み屋は人を哲学者にする。

いやいや飲み屋の話しではない。ピーナツの話だ。ピーナツはそんなに思い悩むことはない。ピーナツには酒飲みという心強い味方がいるからだ。
ピーナツはどんな酒にもあう。特にビールによくあう。それに料理する必要もない。袋を開けてぽりぽり食べるだけでよい。
もちろんぽりぽり食べるのはピーナツだけではない。ピスタチオもあればカシューナッツもアーモンドもある。
ただこれらの仲間たちは田舎暮らし派の中では、別荘暮らし派といったところで、どうも地元の人になじもうという努力が感じられないのだ。
自分たちはよそ者なんだから、と完全に割り切って、地元の人とは付き合わないよ、というところが見える。
ここら辺はもう少しピーナツのいじましい努力を見習ってほしい。
それにこれらの豆たちはどうもいろいろ問題がありそうだ。
ピスタチオは潔さというか、大和魂というかそんなものがかけている。口をだらしなく半分あけて「いや、やめて!」という。
小皿の上にのった以上はもうまな板の上の鯉。ここは潔く観念して成仏してほしい。抵抗するならいっそ胡桃のように頑強に抵抗してほしい。
すると「敵ながら天晴れ!」とほめてやるのに・・・。
カシューナッツはその勾玉のような芋虫のような形がどうにも間延びしていけない。味もまた大味でしまりがない。
アーモンドにいたっては客を完全に無視している。
皮付きのままで食べさせようなんてなんという了見だろう。ピーナツのさらりと服を脱ぐあのさらり感がまるでないのだ。
どうやらあのしわしわの体を見られたくないらしい。これでは温泉街のストリップ小屋と同じだ。いっちょまえに高い金だけとって!!

いやいや、ピーナツの話だった。というわけでピーナツを見ると人生の悲哀を感じる。でもねそんなに思い悩むこともないんだよ。
君たちには酒飲みという強い味方がついているのだからね。
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クラシック

2007年03月18日 06時52分22秒 | 田舎暮らし
のんびり田舎暮らししたいなぁ~なんて思っている人は多いかもしれない。
でも田舎暮らしはのんびり出来ない。
都会での生活と一番変わったことは土日祝日がなくなったことだ。
月月火水木金金、欲しがりません勝つまでは、足りぬ足りぬは工夫が足りぬ~の心境だ。

とはいえそれほど働いているわけでもない。
ただ仕事と遊びのけじめつかなくて、やりたいことがどんどんたまっていく。
それで雨が降ったらやろうなんて仕事も増えて、雨が降ってもとうてい晴耕雨読なんていってられなくなる。

百姓をやると本を読まなくなる・・・らしい。
確かに読書量はだいぶ減った。
それは貴重な読書タイム、通勤電車の時間がなくなったせいもあるけど、めまぐるしく変わる自然や動物たちを相手にしていると、
いつも新鮮に感じられて読書よりもずっと面白い。

昔は良く聞いてたクラシック音楽もそうだ。
ここに来てほとんど聞いていない。
音楽を聴いているとすぐ他のことが気になるからだ。
あっ、しまった、にんじんの種まき忘れていた!
レタスにも肥料をやらなぁ。
あ~あ、また山羊が鳴いてる、まったく食べることしか頭にないのだから!!

でもふっと思う。
ちょっと疲れたな、と。
ちょっと休みたいな、と。
それで久しぶりにクラシック音楽を聞いた。
それも今ではどちらかというとマイナーなパガニーニのヴァイオリン協奏曲を。
このあまりに甘いメロディーや仰々しいトランペットの音が古きよき時代を思わせてとても懐かしく感じられた。
きっとこの曲は同じパガニーニの奇想曲とともに大正時代や昭和初期のヴァイオリニストの憧れの曲だったのだろう。
この曲はSPレコードで聴くといっそう輝きを増す・・・そんな気がする。

そうだ今度はカザルスのバッハの無伴奏チェロ組曲を聴こう。
しとしとと音を立てて降る雨の日がいい。
だるまストーブに温まりながら聞くのがいい。
きっとこの曲は田舎暮らしに良く似合うだろう。
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室津

2007年03月17日 09時56分16秒 | 田舎暮らし


室津に行った。
海が好きなので、古い港が好きなので、一度は行ってみたかった。
でも・・・まだ冬の海。
雲が低く立ち込め、灰色の空と海は気持ちを沈ませる。

室津は北前船の寄港地で朝鮮使節もたびたび訪れた古い港。
でも古い町並みはほんのわずかで、コンクリートの護岸が目立つ。
磯の香りもしないし、港の活気もない。
鞆の浦とはなんという違いだろう。
同じ瀬戸内の入り江、港からの景色も似てないこともない。
でもやっぱりかなり違う。
季節のせいかもしれない。
鞆の浦に行ったときは冬ではなかった。
冬の港はとても気持ちを沈ませる
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イカナゴの釘煮

2007年03月17日 09時47分56秒 | 田舎暮らし
この地方では今頃の季節たいていの家庭ではイカナゴの釘煮を作る。
たくさん作って自家用や親戚や知人に送ったりするのでスーパーの魚売り場ではイカナゴがあふれている。
我が家でも毎年たくさん作る。
でも今年は暖冬の影響だろうかイカナゴがものすごく高い。
それでみんなイカナゴのパックを横目にため息をつき、通り過ぎていく。
今年はイカナゴの釘煮も不漁のようだ。
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開花宣言

2007年03月15日 05時37分46秒 | 田舎暮らし
我が家の桜が咲きました。
ちらほらだけど咲きました。

気象庁は東京の開花予報が大幅に間違ったので謝罪したとか。
大変だね、しなけりゃ良かったのにね。
明日の天気予報さえ満足に出来ないのにね。
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赤い車がやってきた。

2007年03月14日 21時14分08秒 | 田舎暮らし
赤い車がやってきた。
近所の人は不思議そう。
きっともうこの集落には噂話が。

「やっと買い換えたか」
「またぶつけたのかな」
「よかった。まったくあの車この村の恥だったからな」

でもおあいにく様!
あの黄色いアホ車、車検に出したので、代替車が来ただけなのですよ。
これからもしつこく、乗り続けるのです。
少なくても次の車検まではね。
しかしあんなでこぼこの車を車検に出す人なんかそうそうはいないだろうね。
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田舎の値段

2007年03月14日 11時56分52秒 | 田舎暮らし
田舎の値段ってなんによって決まるのだろう?
いまどき田舎の土地や家を買うのは田舎暮らし系の人くらいのものだろうけど、田舎暮らし系の人は公示価格で決めるのではない。
自然の豊かさ、生活の便利さ、閉鎖的でないこと、自治体の支援があることなどで決める。
公示価格は田舎の値段を反映してはいない。気に入ったところだったら公示価格の2倍の金を出しても買う。
そこで公示価格以外にこのような価値を反映した別の基準があると田舎暮らし系の人も迷わないですむ。

まず自然度。どうして田舎に来るのかというと、たいていの人は田舎の自然にあこがれてやってくる。自然こそ田舎の財産なのだ。
ところがそれに気づいていない人が多い。そして川や側溝をコンクリートで固めてきれいになったといって、自分たちの財産を減らして喜んでいる。
田舎暮らし派の人からみればそのような土地は買わないか値引きの対象になるくらいなのだけど・・・。

自然度はメダカ、日本タンポポ、キジ、ホタル・・・など何種類かの動植物をスケールにして数値化することが出来る。
自然の豊かなところほど田舎の価値が上がり値が上がることになると、田舎の人も自然の価値を見直すだろう。
「自然を守ろう」なんてきれいごとを言ってもそんなこと田舎の人には通用しない。
第一散々都会の自然を破壊してその結果を享受している人たちが自然をまもろうなんていっても、そんなもの説得力なんかあるものか。
要は、自然を守ったらいくら儲かるか、自然を破壊したらいくら損するかを数字で出したらいいのだ。
すると、「自然を守ろう」というと「おかしなことを言う」といってる人たちだって、たちどころに自然擁護派に変わるだろう。

次に田舎暮らし派の人がなかなか田舎暮らしに踏み切れない主な理由は田舎の排他性だ。
都会では排除の論理はなかなか通用しない。ごみ屋敷や騒音おばさんがいてもこれを排除するのは難しい。
ところが田舎では排除の論理はまだ生きていて、異質な人間を排除しようとし、よそ者をなかなか受け入れようとしない。
30年もすまないと地元の人とは認めてもらえないし、中には3世代たたないと地元の人と認めてくれない所もある。
これが田舎暮らしをしたい人はたくさんいるけどなかなか踏み切れない大きな原因でもある。そしてそれが田舎の値段を下げている。
そこでよそ者の受け入れ度と定着率を数値化すればよい。さらに移住者や転出者の評価や自治体の田舎暮らしの支援度も数値化しよう。
これによって田舎暮らし派の人も安心して田舎の物件を選ぶことが出来るだろうし、田舎の人たちも閉鎖的だと自分たちの財産の価値が下がることを知るだろう。

最後に生活の便利さは駅や郵便局やスーパーや病院や学校までの時間を数値化すればよい。
ただこれは公示価格とそれほど変わりないものになるかもしれない。ただ徒歩の時間だけでなく車での時間も評価基準に入れると少し変わってくるだろう。
便利度は人口問題でもある。田舎に人がたくさんやってくるようになると、自然に便利になるだろう。

このように公示価格以外の新しい尺度を取り入れることによって、自然の保護ばかりでなく、田舎もまた変わっていくだろう。
都会の人は自然はあるものではなく、買うものだと考えて自然に金をかけよう。そして自然の保護は儲かるんだということを田舎の人にわからせよう。
それが自然保護のもっとも手っ取り早いやり方だ。
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ホームページの工事のお知らせ

2007年03月13日 05時34分34秒 | 雑感
迷ってたけど、ついにホームページ(ぐうたら里山暮らし)を大幅に改修することにした。
あまり大きくなりすぎて自分でもうんざりしていたのだ。
それにこのブログのほうが更新が簡単なので、ついついブログに頼ってしまう・・・。

でもブログは借り物の感じがして、自分の家というと、やっぱりホームページだね。
というわけで、4月になるとほとんど消えてしまい、数ヶ月かけて、徐々に、大幅に整理や加筆して復活するつもりです。
というわけで、見るの今のうちだよ。
(このブログは、もちろんこのままずっと続けます)
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鹿と山羊

2007年03月13日 05時14分53秒 | 田舎暮らし
スイセンは今が盛り。
去年初めてところどころぎっしり固まって花つきも悪かったスイセンを掘り起こして家の周りにあちこち植えた。
それで家の周りはスイセンの花でいっぱい・・・のはずが、ちらほらしか咲いていない。
鹿が食べたのだ。いつも花が咲く頃食べられる。
食べた後を見ると玄関のすぐそばまで来ていることがわかる。

しかし、本にはスイセンは有毒だと書いている。どうやら鹿は本を読んでないらしい。もっとも山羊も本を読んでいないけどスイセンは食べない。ここら辺は珍しく山羊は賢い。

山羊と鹿は似ているようで、だいぶ違う。
山羊は牛に近い。その角は生きてて温かい。
鹿の角は死んでて冷たい。そして毎年生え変わる。

鹿は夜行性で山羊は夜は眠る。
でもこれは環境の問題なのだろう。
猟師がいなかったらきっと鹿も昼間活動するに違いない。
時々昼間に見ることもある。

鹿はさすがに野生の動物だけあってしまった顔をしている。
でも山羊は鹿に比べるとふやけた顔をして、もうひとつ緊張感に欠ける。
鹿を一時間ほど温泉に入れたら、きっと山羊みたいな顔になるだろう。
鳴き声も鹿は、「ピーッ」と鋭く鳴き、山羊は「め~」とふやけて鳴く。

アウトドア派には鹿が似合い、里の暮らしには山羊が似合う。
「め~~」と間延びした、緊張感のない鳴き声がいかにも里の暮らしにふさわしい。

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