ピーナツは難しい。
食べだすと止まらなくなりどこでやめるかいつも迷う。
一袋の1/3も食べると後は明日にとっておこうかななんて思うけど、手や口は勝手に動き出す。
でもさすがに残り半分になるともうこれでやめようと思う。
そして最後にあとちょっとと思い三口ほどたべてやっと終わる。
それでいつもきっちり4/10残ることになる。
ピーナツを一粒ずつ食べる人がいるけど、これはみみっちくていけない。
かといって思いっきり手のひら一杯にとる人間を見ると思わず、「戻せ!」と叫びたくなる。
ピーナツは人差し指と中指と薬指と親指の4本の指で軽くさりげなくとりたい。
すると4~5個のピーナツをつかむことが出来る。
そしてそれを一度にぽりぽり食べる。
ピーナツには殻つきと皮付きと皮なしがある。
よく買うのは皮なしのそのまま食べられるものだ。
面倒くさくなくていい。皮が飛び散らなくていい。
昔はたいてい皮付きのを買った。たまに殻つきのも買った。
けれども食べた後の掃除が大変だ。いつもどこかに皮が残っている。
それに皮の残骸の山の中にたいてい何個かは隠れているのでそれを苦労して探さないといけない。
昔はそれを見つけると思わず「儲かった!」と思ったものだが今では単に面倒でしょうがない。
というわけで、最近はもっぱら皮なしのを食べる。
ただいつも迷うのだ。どれが1個あたりで一番安いのかということを。
これはなかなか難しいけど、どうも殻つきが一番高いように思う。
とするとこれはまったく理不尽な話だ。
殻もついたままの欠陥商品を高く売りつけるなんて!
逆に一番安いのは皮なしでしかもバターなどで味付けしているもののような気がする。
これまた不思議な話だ。わざわざ手をかけているのに一番安いなんて!
スーパーのビール売り場に行くとたいてい、100mlあたりいくらかと表示してあるのでどれが安いかよくわかる。
ピーナツも1個当たりいくらかという表示をしてほしい。するとどれが安いかすぐわかるだろう。
ただ殻つきのものは何個入っているか判断するのは難しいかもしれない。殻は立派だけど中身が少ない性悪のピーナツもいるからだ。
それにそうそう、ビールの表示だって問題だ。最も大切なのは量ではない質なのだ。アルコール度数のことをまるで考えてないのだ。
われわれ酒飲みにとってもっとも大切なことはどれくらい酔えるかという酔っ払い度なのだから。
そこで100円あたりのアルコール度を表示してもらいたい。
そうするとビールもウィスキーも焼酎も同じ基準で評価できる。そこでぜひ「酔っ払い度」を採用していただきたい。
ところでピーナツの話。
ピーナツは日本の田舎の畑にやってきてもう結構経っている。それなのにまだよそ者で他の野菜たちからなかなか仲間に入れてもらえない。
しょせん都会からやってきた「田舎暮らし派」の野菜だと思われている。
そこらへんはピーナツもよくわかっているので、田舎暮らし派の人間が自分たちをことさら「百姓」と呼びたがるように、
ピーナツも自分たちのことを「南京豆」と呼びたがる。
これはもちろんカボチャ(南京)にあやかって自分たちも同じように受け入れてもらおうという、涙ぐましい気持ちの現れなのだ。
でも残念ながらその気持ちは通じない。他の人は誰も田舎暮らし派の人を「百姓」とは呼ばないように、「南京豆」とはなかなか呼んでくれない。それよりももっぱら「落花生」と呼ばれる。
これは花が咲いた後つるが伸びて、土の中でピーナツが生まれるそのままをあらわしただけで、ピーナツにとっては少しも面白くないネーミングなのだ。
ところで今、野菜と書いたけど実際のところ野菜ですらない。穀類でもない。どちらかというとどうでもいいスナック菓子程度にみなされる。
ほんとうは料理にももっと使えるのにあまり使ってもらえない。田舎暮らししたいのに、もっと田舎の野菜たちの仲間になりたいのに仲間に入れてもらえない。
そしてきわめて不本意ではあるけど、柿の種でもないのに「柿の種」と称するまがい物と一緒にされて都会の薄暗いバーやスナックやキャバレーの小皿に登場させられる。
そこは「3000円で呑み放題・食べ放題!!」なのだけど、食べ放題がなんとこの「柿の種」なのだ。それも肝心のピーナツがちょっとしか入ってない!
それに呑み放題の方だって、頼んでもなかなかおかわりを持ってきてくれない。その上「ねぇ~指名してぇ」とせがまれて、指名すると、とたんにいなくなる。
ひとりぽつんと待たされて、人生の悲哀を感じ、身の行く末を思い悩む。飲み屋は人を哲学者にする。
いやいや飲み屋の話しではない。ピーナツの話だ。ピーナツはそんなに思い悩むことはない。ピーナツには酒飲みという心強い味方がいるからだ。
ピーナツはどんな酒にもあう。特にビールによくあう。それに料理する必要もない。袋を開けてぽりぽり食べるだけでよい。
もちろんぽりぽり食べるのはピーナツだけではない。ピスタチオもあればカシューナッツもアーモンドもある。
ただこれらの仲間たちは田舎暮らし派の中では、別荘暮らし派といったところで、どうも地元の人になじもうという努力が感じられないのだ。
自分たちはよそ者なんだから、と完全に割り切って、地元の人とは付き合わないよ、というところが見える。
ここら辺はもう少しピーナツのいじましい努力を見習ってほしい。
それにこれらの豆たちはどうもいろいろ問題がありそうだ。
ピスタチオは潔さというか、大和魂というかそんなものがかけている。口をだらしなく半分あけて「いや、やめて!」という。
小皿の上にのった以上はもうまな板の上の鯉。ここは潔く観念して成仏してほしい。抵抗するならいっそ胡桃のように頑強に抵抗してほしい。
すると「敵ながら天晴れ!」とほめてやるのに・・・。
カシューナッツはその勾玉のような芋虫のような形がどうにも間延びしていけない。味もまた大味でしまりがない。
アーモンドにいたっては客を完全に無視している。
皮付きのままで食べさせようなんてなんという了見だろう。ピーナツのさらりと服を脱ぐあのさらり感がまるでないのだ。
どうやらあのしわしわの体を見られたくないらしい。これでは温泉街のストリップ小屋と同じだ。いっちょまえに高い金だけとって!!
いやいや、ピーナツの話だった。というわけでピーナツを見ると人生の悲哀を感じる。でもねそんなに思い悩むこともないんだよ。
君たちには酒飲みという強い味方がついているのだからね。
食べだすと止まらなくなりどこでやめるかいつも迷う。
一袋の1/3も食べると後は明日にとっておこうかななんて思うけど、手や口は勝手に動き出す。
でもさすがに残り半分になるともうこれでやめようと思う。
そして最後にあとちょっとと思い三口ほどたべてやっと終わる。
それでいつもきっちり4/10残ることになる。
ピーナツを一粒ずつ食べる人がいるけど、これはみみっちくていけない。
かといって思いっきり手のひら一杯にとる人間を見ると思わず、「戻せ!」と叫びたくなる。
ピーナツは人差し指と中指と薬指と親指の4本の指で軽くさりげなくとりたい。
すると4~5個のピーナツをつかむことが出来る。
そしてそれを一度にぽりぽり食べる。
ピーナツには殻つきと皮付きと皮なしがある。
よく買うのは皮なしのそのまま食べられるものだ。
面倒くさくなくていい。皮が飛び散らなくていい。
昔はたいてい皮付きのを買った。たまに殻つきのも買った。
けれども食べた後の掃除が大変だ。いつもどこかに皮が残っている。
それに皮の残骸の山の中にたいてい何個かは隠れているのでそれを苦労して探さないといけない。
昔はそれを見つけると思わず「儲かった!」と思ったものだが今では単に面倒でしょうがない。
というわけで、最近はもっぱら皮なしのを食べる。
ただいつも迷うのだ。どれが1個あたりで一番安いのかということを。
これはなかなか難しいけど、どうも殻つきが一番高いように思う。
とするとこれはまったく理不尽な話だ。
殻もついたままの欠陥商品を高く売りつけるなんて!
逆に一番安いのは皮なしでしかもバターなどで味付けしているもののような気がする。
これまた不思議な話だ。わざわざ手をかけているのに一番安いなんて!
スーパーのビール売り場に行くとたいてい、100mlあたりいくらかと表示してあるのでどれが安いかよくわかる。
ピーナツも1個当たりいくらかという表示をしてほしい。するとどれが安いかすぐわかるだろう。
ただ殻つきのものは何個入っているか判断するのは難しいかもしれない。殻は立派だけど中身が少ない性悪のピーナツもいるからだ。
それにそうそう、ビールの表示だって問題だ。最も大切なのは量ではない質なのだ。アルコール度数のことをまるで考えてないのだ。
われわれ酒飲みにとってもっとも大切なことはどれくらい酔えるかという酔っ払い度なのだから。
そこで100円あたりのアルコール度を表示してもらいたい。
そうするとビールもウィスキーも焼酎も同じ基準で評価できる。そこでぜひ「酔っ払い度」を採用していただきたい。
ところでピーナツの話。
ピーナツは日本の田舎の畑にやってきてもう結構経っている。それなのにまだよそ者で他の野菜たちからなかなか仲間に入れてもらえない。
しょせん都会からやってきた「田舎暮らし派」の野菜だと思われている。
そこらへんはピーナツもよくわかっているので、田舎暮らし派の人間が自分たちをことさら「百姓」と呼びたがるように、
ピーナツも自分たちのことを「南京豆」と呼びたがる。
これはもちろんカボチャ(南京)にあやかって自分たちも同じように受け入れてもらおうという、涙ぐましい気持ちの現れなのだ。
でも残念ながらその気持ちは通じない。他の人は誰も田舎暮らし派の人を「百姓」とは呼ばないように、「南京豆」とはなかなか呼んでくれない。それよりももっぱら「落花生」と呼ばれる。
これは花が咲いた後つるが伸びて、土の中でピーナツが生まれるそのままをあらわしただけで、ピーナツにとっては少しも面白くないネーミングなのだ。
ところで今、野菜と書いたけど実際のところ野菜ですらない。穀類でもない。どちらかというとどうでもいいスナック菓子程度にみなされる。
ほんとうは料理にももっと使えるのにあまり使ってもらえない。田舎暮らししたいのに、もっと田舎の野菜たちの仲間になりたいのに仲間に入れてもらえない。
そしてきわめて不本意ではあるけど、柿の種でもないのに「柿の種」と称するまがい物と一緒にされて都会の薄暗いバーやスナックやキャバレーの小皿に登場させられる。
そこは「3000円で呑み放題・食べ放題!!」なのだけど、食べ放題がなんとこの「柿の種」なのだ。それも肝心のピーナツがちょっとしか入ってない!
それに呑み放題の方だって、頼んでもなかなかおかわりを持ってきてくれない。その上「ねぇ~指名してぇ」とせがまれて、指名すると、とたんにいなくなる。
ひとりぽつんと待たされて、人生の悲哀を感じ、身の行く末を思い悩む。飲み屋は人を哲学者にする。
いやいや飲み屋の話しではない。ピーナツの話だ。ピーナツはそんなに思い悩むことはない。ピーナツには酒飲みという心強い味方がいるからだ。
ピーナツはどんな酒にもあう。特にビールによくあう。それに料理する必要もない。袋を開けてぽりぽり食べるだけでよい。
もちろんぽりぽり食べるのはピーナツだけではない。ピスタチオもあればカシューナッツもアーモンドもある。
ただこれらの仲間たちは田舎暮らし派の中では、別荘暮らし派といったところで、どうも地元の人になじもうという努力が感じられないのだ。
自分たちはよそ者なんだから、と完全に割り切って、地元の人とは付き合わないよ、というところが見える。
ここら辺はもう少しピーナツのいじましい努力を見習ってほしい。
それにこれらの豆たちはどうもいろいろ問題がありそうだ。
ピスタチオは潔さというか、大和魂というかそんなものがかけている。口をだらしなく半分あけて「いや、やめて!」という。
小皿の上にのった以上はもうまな板の上の鯉。ここは潔く観念して成仏してほしい。抵抗するならいっそ胡桃のように頑強に抵抗してほしい。
すると「敵ながら天晴れ!」とほめてやるのに・・・。
カシューナッツはその勾玉のような芋虫のような形がどうにも間延びしていけない。味もまた大味でしまりがない。
アーモンドにいたっては客を完全に無視している。
皮付きのままで食べさせようなんてなんという了見だろう。ピーナツのさらりと服を脱ぐあのさらり感がまるでないのだ。
どうやらあのしわしわの体を見られたくないらしい。これでは温泉街のストリップ小屋と同じだ。いっちょまえに高い金だけとって!!
いやいや、ピーナツの話だった。というわけでピーナツを見ると人生の悲哀を感じる。でもねそんなに思い悩むこともないんだよ。
君たちには酒飲みという強い味方がついているのだからね。