イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「作家の手料理」読了

2021年12月15日 | 2021読書
野村麻里/編 「作家の手料理」読了

30人の、作家や有名人が料理について語ったエッセイが収録されている。今年の初めに出版された新刊書のわりには掲載されている作家は昔の人が多い。大半が1900年代の前半に生まれた人たちだ。1950年代に生まれた人で収録されているのは2名だけである。これは編集者の好みもあるだろうけれども、料理を文学にするというのは今の時代では難しくなったということもあるのかもしれない。
料理に関する小説やエッセイを好んで読むというのではないが、現代に生きる作家が現代の食を語るときっと味気ないものになってしまうか、昔を懐かしんで過去を書くという風になってしまうのではないかと思う。世界中の食材が、年中、季節を問わず簡単に手に入るのが現代だ。料理法も、いかに簡単に作るか、いかに手を抜くか、本当の味に似せるか、そんなことが話題の中心になる。格差社会では、そんな高級なレストランの話をされても現実感がないと興ざめをさそうだけだ。そして、コンビニの食材や激辛メニューがテーマでは文学にはならないだろう。
だから、人が、日常の中で季節感を感じる食について書いたものを厳選してゆくと自ずからそういう時代の作品になってしまうというのが本当のところかもしれない。
これは釣りの世界も同じで、季節感や、自然の中に入り込んで書かれた作品となるとひと昔、ふた昔、もっと昔の作品を選ばざるをえないということになるだろう。食も釣りもなんだかすべて効率化、画一化されてしまっているような感がある。
自分自身も、これくらいの時代の人たちが書いた文章のほうが、なんだかしっくりくるのである。釣りに関する文学もしかりなので古本ばかりを読んでいた。
そうは言いつつ、編者が書いた前書きには、『文章と料理を繋ぐもの、それは読者の好奇心と想像力そして実行力である。』と書かれていたが、僕もその画一化された食生活に毒されているのか、掲載されている料理や食材にはあまり想像力が働かない。
その中で、2編収録されていた「苦み」についてかかれたものについてはなんとなくそうなんだよなという気にさせられた。人間が感じることができる味覚のひとつにこの「苦み」というものがあるが、もとは食べてはいけない毒のある可能性のある物を識別するために発達した味覚だという。しかし、人間はこの苦みを喜んで求めている感がある。山菜の苦み、ビールの苦み、どれもわざわざそれを求めているのは確かだ。苦みのない山菜はただの雑草だし、ビールに苦みがなければ日本酒だけでいい。
その理由はわからないけれども、苦みのない食生活はあまりにも単調であるのは確かだと思う。

1950年代生まれのふたりの著者のうちのひとりは星野道夫であった。内容はというと、アザラシの脂肪分についての記述だったのだが、その味については置いておくとして、エスキモーと一緒に生活する上で、この獣臭い脂を食べるということが、同じ仲間だと思ってもらえるためのひとつの試金石であったというのだ。自分たちが食べるものを何食わぬ顔で食べる姿を見てエスキモーたちはよそ者を受け入れる。エスキモーという言葉はたしか、”生肉を食べる人たち”という意味で使われた差別用語だと聞いたことがある。おそらく、よそ者が入ってきてもその生臭さが敬遠され、差別につながったという歴史があったのだろう。だからこれが試金石なったということに違いない。アフリカでも同じようなことがあるということが書かれた本を読んだことがあるので、世界中きっと同じなのだろう。
そういえば、ご近所付き合いについても同じようなことがあるのではないかとふと思った。ご近所付き合いの最初はやはり食べ物での交流から始まるのではないかと思うのだ。
作りすぎた料理をおすそ分けする、もらった野菜や自分で作った野菜を持って行ってお返しにまた何かをもらう。そんなやりとりで相手の生き方や好みを知りながら交流が生まれる。そうやってコミュニティが生まれるのだろうけれども、やはり現代社会ではそういうことがままならない。
僕の隣の住人は、庭にカートップできるボートを置いているほど釣りが好きなひとのようなのだが、まったく交流がない。たまに表で見かけると挨拶をするくらいだ。その家は、子供もいる家庭だが、ヨシケイのお世話になっているらしく、玄関に宅配BOXを置いている。ヨシケイということは、毎食人数分の分量きっちりが配達されるのであろうから、おすそ分けを配ろうにも何も余らないだろう。こっちも、ヨシケイだけを食べているのだからそれ以上のものを食べてもらうというのははばかられる。だから挨拶以上のことが続かない。この前、ボートを洗っているところに出くわしたので、「何か釣れましたか?」「アジが釣れました。」という会話が初めて成立したが、それ以上は続かない。
まあ、世代が違うというのもあるが、やっぱりその溝を埋めるというのが食材なのではないかとこの本を読みながら改めて思ったのである。


想像力と実行力であるが、ひとつだけ、試してみようと思う料理があった。
向田邦子が書いていた、「和布の油いため」である。
レシピはというと、
まず、最初に長袖のブラウスに着替える。
次に、大きめの鍋の蓋を用意する。
ここからが本格的なレシピとなる。
『支那鍋を擁してサラダ油を入れ、熱くなったとろへ、水を切ってあった若布を放り込むのである。ものすごい音がする。油がはねる。このとき長袖が活躍する。左手で鍋蓋をかまえ、右手のなるべく長い菜箸で、手早く若布をかき廻す。若布はあっという間に、翡翠色に染まり、カラリとしてくる。そこへ若布の半量ほどのかつお節(パックでもけっこう)をほうり込み、一息入れてから、醬油を入れる。二息三息して、ぱっと煮あがったところで火を止める。』というものだそうだ。
また来年の春にはワカメの季節が訪れる。その時にはこれを試してみたい。
そして、僕なりの想像力を加えるのなら、この料理に黒ゴマを大量に加えたい。幸いにして、売っていた日が賞味期限切れの日という、ひと瓶10円の黒ゴマを大量につい最近買った。あと、数か月は十分食に耐えられると思うから、これをふんだんに使って文章と料理を繋いでみたいと思うのである。


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加太沖釣行

2021年12月12日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:小潮 6:35干潮
潮流:6:37 下り1.9ノット最強 9:51転流
釣果:ヒラ1匹 タチウオ 2匹 (画像なし)

今日はいい天気だ。そろそろお正月の鯛を確保しなければと思いつつ、イワシが余っていて小潮で風がないとなると最後のタチウオという考えも浮かぶ。そして、どうもこの考えが今日の残念な結果に結びついたようである。

タチウオは遠くに行きたくないので紀淡海峡のこちら側で釣りたい。そして朝は下り潮なので今日は非武装ポイントからスタートし、潮止まりの時間前後ですぐ近くのアイヤマでタチウオを釣ろうと考えていた。

田倉崎を越え、ジノセトに向かう途中は明らかに潮の流れがある。



それは船の速度がてきめんに落ちることでわかるのだが、もともと潮の流れは少ないだろうと思っていたがこれだけの流れがあると期待が持てる。
船団がジノセトの上手にできていたのでそこに混ざってスタート、しかし、周りはほぼすべて帝国軍だ、けっこう過密状態なので落ち着いて釣りができない。



ここをすぐにあきらめて非武装ポイントの山の頂上付近へ移動。ジノセトでは下りの潮がはっきりしていたが、打って変わってここはほとんど流れがない。



アジサバらしき反応もないので高仕掛けに替えてみたけれどもこれもアタリがない。これだけ潮が流れていないならタチウオも釣りやすいのじゃないかとすぐに移動を決断。
アイヤマを目指すが、なぜか船の姿がまったくない。風も波もないのできっと洲本に行ってしまっているのだろうと考え、もし、ここで大漁ならタチウオを独り占めだとかなりポジティブな思考が頭をよぎる。さっそくテンヤを落とす。しばらくすると、海底から10メートルの範囲で真っ赤な反応が出てきた。



いったいなんなのだろう・・。タチウオではないことは間違いない。ここは水深80メートル前後の場所なので、ひょっとしたらこれはアジサバの大群ではないのだろうかと再びポジティブな思考が巡ってくる。仕掛けをサビキに替えて下してゆくとすぐにアタリがあった。これは見事に予想が的中して、ものすごい金の鉱脈を掘り当てたのじゃないか、ひょっとしてこの秘密は僕だけのものじゃないかと3回目のポジティブな思考が生まれる。引きは大したことがないが、それはきっと水深が深いからだろうというのは4回目のポジティブな思考だ。そして魚の影を見た時、これは大きい、でも、見るからに薄い・・。タモで掬ってみると、まったく見たことのない魚だ。コノシロが巨大化したように見えるし、ニシンの拡大コピーにも見えるし、アロワナの出来損ないのように見える。深海魚のように目は大きなレンズ状になっているし、鱗はすぐに剥がれてしまうのでイワシの親玉のようにも見える。ますます変な魚だ。これは食えるのだろうか・・・。
体力のない魚らしく、デッキの上でのびてしまっているのでそのまま放置して反応が続いている海底に仕掛けを下した。今度もすぐにアタリ。かなりの引きだ。今度はきっと青物に違いないと思ったら、同じ魚が4連で上がってきた。



魚探の反応はすべてこの魚のもののようだ。ここで留まっていた時間は30分ほどだったがずっと反応は続いていた。いったいどれほどの数の魚がいたのだろう。テレビのドキュメンタリーや写真集で見るような魚の群遊がこの真下で繰り広げられているに違いない。これはきっと壮大な景色に違いないが、壮大な景色でもタチウオが釣れなければ意味がない。ここは燃料を使ってでも洲本に行くしかない。
釣った魚に貴賤はないと思っているのだが、これを全部持って帰るのはきつい。おそらく生き延びることはないのだろうが1匹だけ試食のために残して海に還して洲本に向けて出発。

洲本でも釣れていないのか、日曜日なのにそれほどの船の数はない。しかも1か所に集まってしまっている。



僕の経験からだと、船が1か所だけに集まっているときは釣れていない時だ。釣れないので、数隻が偶然集まっているのを見て、あそこは釣れているに違いないとほかの船がどんどん集まってくるのだ、これも人の心理なのだろう。

案の定アタリはほぼ無いに等しい。たまにアタリがあっても相変わらず鉤には乗らない。なんとか2匹釣り上げ、転流時刻から1時間が経過したので、アジだけでも釣って帰ろうと加太に戻る。



帰り道のルート上にあるポイントのほうが都合がいいので四国沖ポイントへ。潮は上り潮のはずだがまったく流れがない。風も波もなく、気温は12月と思えないほど暖かい。デッキチェアに背中を預けてぼ~っとしているともう居眠りをするしかない。こんなことをしていても魚が釣れることはあるまいと、午前11時半に終了。




今日の状況ではおそらく朝は第2テッパンポイントからスタートして洲本へ回るというのが妥当なところだったのではなかったのだろうか。アイヤマへ行こうとしたというところが躓きのもとであったのだろうと思う。結局、360円のイワシを使うために1000円分以上の軽油を無駄に焚いたことになってしまった。
そして、燃料を無駄に焚いた引き換えに釣り上げたくだんの魚だが、いつもの通り家に帰ってわからないことはSNSだとアップしてみると、釣果欄に書いたとおりの名前の魚であるということがわかった。名は体を表すという見本のような名前がついている。
さばいてみると、おなかの中には大量の脂が入っている。これは意外と美味しいのではないかと期待が持てるのだが、魚の姿形から想像する通り、小骨がものすごく多い。この辺はなさそうだと思うところだけを取り出すと半分くらいの量になってしまった。



不味い魚でもこうすればそこそこ食べられるだろうと、蒲焼風にしてもらった。調味料は去年「わかやま〇しぇ」でもらってきた謎の調味料だ。謎の魚は謎の調味料で調理するというのは道理にかなっているというものだ。
食べてみると不味いことはない。まったく癖のないあっさりした味だ。ただ、やっぱり小骨が多い。もう、小骨を発掘しながら残った身を食べるという感じである。骨の発掘に集中するものだから、普段から会話のない夕食がもっと会話のない夕食になってしまった。
下あごの半分がなくなってしまった母親には無理をして食べるなというのだが、それでも食べようとする。これも性か・・。



食事のあとであらためてネットで調べてみると、骨切りをして食べると美味しいと書いてある。旬は冬らしいのでまさに今が旬だ。ただ、この小骨のせいでほとんど食用にはされていないとのことである。それでも岡山県あたりではよく食べられているとのこと。
また、別名がおもしろい。有明海では「長崎ターポン」と呼ぶらしい。チャンポンのパクリだ。確かにターポンにも似ていないことはなさそうだ。「ヘタレ」というのは陸に揚げるとすぐに動かなくなってしまうからだろう。
体は薄いとはいえ、50センチ近い長さがあるので身はまあまあの厚みはある。だから骨切りをするという発想はなかった。今度釣ったらきちんと骨切りをして食べてみようと思う。
デッキもヌルヌルして汚れるのであんまり釣りたくはない魚だが・・。

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水軒沖釣行

2021年12月10日 | 2021釣り
場所:水軒沖
条件:中潮 3:50干潮 11:12満潮
釣果:コウイカ 1匹

やっと母親が退院する。最初の入院が10月25日だったのであしかけひと月半、短いようで長かった。

午前10時には病院に到着しなければならないので慌ただしい。次回の釣行のために大きい方の船の給油もしておかねばならない。
逆算すると、午前8時過ぎには港の岸壁に戻っておかねばならないのでどんなに長く見積もっても釣りをしていられる時間は1時間半ほどだ。

できるだけ長く釣りをする時間を取りたいので真っ暗のうちに港へ。あと10日ほどで冬至を迎えるとあって、こんなに暗くても午前6時ちょうどだ。おまけに今日は雲が多いのでなかなか明るくなってこない。ここで時間を潰すのはもったいないので航海灯を点けて出港。



今年、なんとかアタリを取り続けることができている新々波止の元の切れ目からスタート。



仕掛けを下してすぐに、多分魚だろうというアタリがあった。アシストフックには掛からなかったが生体反応があるというのはいいことだ。
しかし、その後はまったくアタリはない。潮の流れもいい感じ、欲を言えばもう少し西向きに流れてくれればいいのだが、きちんと底も取れて適度に船も流れている。しかし、アタらない。思い切って最先端まで行くという手もあるのだが、帰りの道中が長くなる。ここは思い切ってダメ元で新々波止と沖の一文字の交差点へ移動。今年はいまいちだが例年ならかなりアタリが出るところだ。



2回ほど流した時にやっとアタリ。1匹確保だ。しかし、この時点で今日の持ち時間の半分ほどを使ってしまっている。今日は最後までこの付近だと決めて何回か行ったり来たりを繰り返す。やはり活性が悪いのか、間違いなくアタリだと思えるものも空振りだ。一度は竿先に重みを感じたがすぐに抜けてしまった。スッテに抱きつくというよりも触っているだけという感じだ。貴重な1匹も目と目の間に鉤が1本だけ掛かっているだけだった。
そうこうしているうちにタイムリミットだ。延長戦はできないのでそのまま帰投。

燃料を買いに行って補給。家に帰って道具を洗ってイカをさばいて着替えを済ませるとちょうど出発時刻の午前9時40分。我ながら見事なオンタイム行動だ。


病院はとにかく待たされる。今日も2時間コースくらいかと思い、読みかけの本を持参までしてきたが、車から降ろして先に行かせた奥さんを追いかけて病室のある階まで行くと、あとは精算だけと大量の荷物を持って待っていた。
結局、駐車場に入庫していた時間は10分。家に帰りついたのは午前10時半。これでは早朝から釣りに出るのではなく、帰ってきてから釣りに行けばよかったと思ってもあとの祭りだ。

午後からのうららかな天気をうらやみながらぼ~っとするしかないのである・・。




かつて、樹木希林が、自分は全身癌だと言っているところをテレビで見たことがある。全身癌って何のことだ?そんな状態になったらすでに死んでいるんじゃないかと思ったが、ふと、母親の今回の入院を通してひょっとして母親もその、全身癌というものではないかと思い始めた。今回、2回も連続して手術ができたのは、原発した癌があって転移したものではなかったからだそうだ。転移してしまっているものなら切らずに化学療法ということになるのだそうだが、別々にできたものだから切ってしまおうとなるらしい。じゃあ、なぜ連続して癌ができるのかということを想像すると、体全体の免疫力が落ちたことで、いたるところで癌細胞がうごめき始めたということでないのだろうかと素人なりに考えた。それなら同時多発的に癌が発生するということも説明できるのじゃないか。
それじゃあ、これから先もまた別のどこかで癌細胞が活躍し始めるということもあるんじゃないかという心配が生まれる。元気に退院できてよかったねで終われないんじゃないか。そんな気がしてきたのである。
心配の種は尽きないが、まあ、今はとりあえずよかったねとしておくしか仕方がないのも事実である・・。

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「思惟する天文学 宇宙の公案を解く」読了

2021年12月09日 | 2021読書
佐藤 勝彦、佐治 晴夫、渡部 潤一 、高柳 雄一、池内 了、平林 久、寿岳 潤、大島 泰郎、的川 泰宣、海部 宣男 「思惟する天文学 宇宙の公案を解く」読了

この本は、2013年に書かれた本だということで情報としては古いものかと思ったが、それはとんでもない間違いだった。天文学上の新しい発見はその後もあったのであろうが、タイトルのとおり、“思惟する”という意味では何ら古びていると思えるものではなく、むしろ、科学者が考える哲学という面から見るとこれは学ぶべき部分が多すぎると思えた。僕自身が何か公案を得ることができたかというと、それはやっぱり無理というものであったが・・。

この本は、「スカイウオッチャー」と言う雑誌に1992年から2000年にかけて書かれた文章を、同じ著者が最長17年の歳月を経たあとで後継雑誌の「星ナビ」誌上で当時からの変化を再度見直したものを並列して書いている。
宇宙の始まりと終わり、宇宙と哲学、宇宙と文明、宇宙と生命、異星の文明、そういったものについてそれぞれ専門の立場から論じている。
この17年間というのは、ダークエネルギーの発見、ヒッグス粒子の存在の証明、形骸惑星がはじめて発見されたという期間であったそうだ。
宇宙を研究対象とする学問分野である天文学は、「世界とはどのようなものか」という根源的な問いかけとストレートにつながっている。これは、神話や宗教には必ずといっていいほど世界の創世や構造を示すさまざまな「宇宙像」が存在していることからもうかがえる。その点で、天文学は他の諸科学と比べてより宗教的・哲学的なテーマに近接している。

日本語で初めて宇宙という言葉が現れるのは日本書紀だそうだ。スサノオの追放の段に、「以って宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべからず。」という文章が出てくるそうである。「宇」は空間の広がりを、「宙」は時間の広がりを表しているのだが、この時代から比べると、宇宙像ははるかに拡大し、地球に生きる自分たちにとって宇宙の意味、あるいは宇宙の中で生きる自分たちの存在の意味を問い直す必要があるという。

銀河系の中に文明がいくつあるかというのは、ドレイクの方程式という計算式で求められ、それは多くても10個くらいかと言われている。恒星圏の中のどの位置に惑星が存在しているか、そしてその大きさも問題になる。あんまり大きすぎると人間サイズの生物は重力のせいで潰れてしまうという。そもそも、地球を育んでいる宇宙も、重力定数というものが10%の範囲で現在の数値と異なると生物を構成する炭素は作り出されていなかったそうだ。
また、生物がいたとして、そいつが文明を生み出すまでの時間だが、地球上で数回起こったとされる大量絶滅による進化のワープがなければ地球の寿命に追いつけなかったとされている。そいういことがおこらなければ文明ができる前に星自体に生物が住めなくなってしまうのである。
要は、奇跡の中の奇跡が起こって今の地球の文明があるのだが、そこに必然性があったのかということが公案を解くことにつながりそうだ。
「人間原理」という言葉は以前に読んだ本にも書いていたが、宇宙を観測する意識、これは地球人でなくてもほかの星の文明でもいいのだが、それがないと宇宙は存在していると言えないのであり、すなわち、観測者がいてはじめてその対象は存在できる。というのが人間原理である。そう考えると、宇宙が存在する限り、地球に文明があるというのは必然ではなかったのだろうか。
それを証明するために天文学は存在するのだというのが執筆者のひとりの考えである。
う~ん、とうならされる内容ではあるが、ちょっと醒めた目で思いで考えると、しょせんそういうことを考えても宇宙の広がりを感じるのはここに届く光を見ることだけで、そこに行って肉眼で確かめるということはもはや不可能であるということは明白となり、ましてや異星の文明と交信するということも不可能である、返信はしたけどその返信を待っている間にこっちが滅びるか、その前に、返信が届く頃には向こうが滅びている確率が高いというのがいまだに異星からの電波が届かない理由である。
それでも異星の文明を探し、はるか遠くの星を探すのを止めないのはきっとこれは偶像崇拝の類ではないのかと僕は思い始めている。
地球で生まれたまともな宗教のほぼすべては当初偶像崇拝を禁ずるというのが常であった。それほど偶像崇拝を禁じるのは、神秘性を高めるという意味もあったのだろうが、これ自体が人間を堕落させるということが昔からわかっていたからではなかろうかと思う。玩物喪志というやつだ。そう知っていながら止めることができないのが人間の性で、知性のないやつはアイドルに走り、知性のある人は科学者になり宇宙を見つめる。そんな構造ではないのだろうかと思うのである。
それにしてはお金をかけすぎではないかと思うのだが、それはそれで平和な時代だからよしとしておけばいいし、僕はその隅っこのほうの知識をちょっとだけ教えてもらえれば僕の玩物喪志は満たされるのである。

ちょうど昨日、変な実業家がロケットに乗って宇宙に行った。宇宙と偉そうに言っても、地球の重力圏内なのだから実は宇宙とは言えないそうなのだが、100億円払って行ったというあの人も宇宙の漆黒の先に偶像を見たいと思ったのだろうか・・。


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「いつか出会った郷土の味」読了

2021年12月08日 | 2021読書
夢枕獏 「いつか出会った郷土の味」読了

ここ数日読んでいる本はイラストや写真がたくさん載っていて読むのに時間がかからない。通勤電車1往復半で1冊のペースだ。
この本も、ひとつの章が4ページほどだが、1ページは丸々イラストで埋まっているし、ページのデザインが余白を多く取っている形なので1章あたり5分ほどで読めてしまう。

「男の隠れ家」という雑誌に連載されていたものをまとめたものということだ。
著者が日本の各地で食べ歩いた思い出の、それもとびきり美味しかった料理や食材を収録している。「いつか出会った・・」と書かれているくらいで、文章の中には30年前とか、20年前、10年前というような表現がたくさん見られる。

釣りのため、取材のためとはいえ、ほとんど日本全国というほど巡っているのには驚くし、それも1回だけではなく何度も同じところに足を運んでいるところもある。当然ながら不味かったものや取るに足らないものも食べているだろうから、どれだけの距離を移動していたのかと思う。夢獏良は多作で有名と聞いたことがあるが、それに加えて普通の作家以上に原稿を書く仕事までこなしているというのだから、人気作家の体力というのは凄まじいと思う。
取り上げられている食材にはお肉がない。釣りが趣味の人だからということもあるのだろうが、魚や山菜、野菜、果物などばかりだ。そういった編集にはうれしさを覚える。まあ僕も歳なのでお肉よりもそういった食材に美味しさを求めているのかもしれないが・・。

1年365日、奥さんの作った弁当と奥さんの作った食事しか食べていないのでそうなってくると、家の外で食べるものにそれほど憧れや欲望を抱かなくなる。もともと旅行が好きというわけでもなく、掲載されている料理や食材を食べに行けるわけでなく、この本を読んでもそんなに想像力をかきたてられることがない。
本の紹介コピーには、「下品に、はしたなく、エロティックに書き下ろす。」と書いているが、けっして作家の技量が悪くてそのエロティックさが伝わってこないのではない。師の言葉では、エロいシーンと食べるシーンを感動的に書ける作家は一流だとは書いていたが・・。
僕にそういうことが伝わって来ないのは、単に家で食べることに慣れてしまっているということにほかならないのである。
お金もないし、この歳からいきなり食べ歩きが趣味ですとなることもない。しかし、ときたまこんな本を読んでそこへ行った気になっておこうとは思うのである。


「生きることは食べること」というのはちょっと前の朝の連ドラのコピーであったが本当にそう思う。夢枕獏ほどではないにしても、僕も食べることは好きだ。お金をかけるということはまったくないけれども季節ごとの食べ物を食べてきたと思う。スーパーに売っているものを買ってくるのではなく、自分で食材を取り自分で調理をするということに、本当の「生きることは食べること」という意味があるのだろうと勝手に思っている。出来合いの総菜をスーパーで買ってくるというのはどうも性に合わない。
食べることに興味のある人、無頓着な人、いろいろいるだろうが、統計的にはどうかは知らないけれども僕の感覚では食べることに無頓着な人というのはあまり健康な生き方をしていないのではないかと思ったりする。
これは僕の家の向かいに住んでいる老夫婦の話であるが、旦那さんは数年前に脳梗塞を患って体の自由が利かなくなってしまった。ひとりで歩くことはできていたようでよちよち歩きで散歩する姿もあったが、最近では奥さんの介添えなしでは歩けなくなっていた。それがひと月ほど前だろうか、奥さんが家にやってきて旦那さんがベッドから落ちて動けなくなったので手伝ってほしいと言ってきた。そんなことは当然と手伝ってベッドに戻してあげたが、2、3日して僕が留守の時にもトイレで動けなくなったから手伝ってほしいと言ってきたらしい。奥さんが駆けつけてベッドに戻したそうだ。
この家庭には独身の娘が二人もいるので普通なら自分たちで手厚い介護ができるはずなのだと思うが、ひとりは一緒に住むことができないと家を出ていてひとりは介護疲れか心を病んで入院してしまったらしい。
そんなことがあって、食べることと健康な生き方についてあらためて思うのが、この人たちは食べることに対して大したこだわりがなく生きてきたのではないかということだ。僕たちがこの場所に引っ越して来た時からのご近所付き合いで、それ以来の何気ない会話の中でも季節を感じる食生活をしているような人たちではないのだという印象を持った。
うちも会話のない家族だが、食べ物を真ん中に置いた会話だけはある。年中同じメニューならうちにもそんな会話さえなかったであろう。美味しい食べ物があると思うと家を出ることもなかったのではなかったのだろうか。と言いながらうちもとうの昔に出ていってしまったが・・。

もちろん、食べることが好きな人が脳梗塞を起こさないということはないと思う。僕はガンで死ぬより今のままでは早晩心筋梗塞を起こす確率のほうが高いはずだ。しかし、あとひと月したらこんなものが食べられる、次の食材確保にいまから準備をせねばと思うことは心筋梗塞の発作を起こす時期を少しは遅らせることできるのではないかと思うのだ。

そして、先週の土曜日、朝5時に家の呼び鈴が鳴った。最初は夢うつつであったが、2回目の呼び鈴と扉を叩く音で完全に目が覚めた。その主は向かいのおばさんであった。またトイレで倒れたまま動けなくなったというのだ。
その後もうちの奥さんに、医者まで行きたいんだけどいつも頼むタクシーの運転手が忙しいらしいと、さもお宅の車で連れて行ってくれと言わんばかりだったようだ。どうも完全にこっちの全面的に頼ろうという姿勢に変わってきている感じがする。タクシーの一件も、少し前に近くの内科に奥さんが連れて行ったことがあったらしい。ご近所付き合いといっても古くから残っているのはこの2軒だけであとは新参の人たちだから気軽に声をかけることができないというのはよくわかる。それも困るのであるが僕だって同じだ。

医学の進歩は人の寿命を延ばしたのだろうけれども、それは単に死ななくしたということだけではないだろうか。そこには人のこころを置き去りにして科学の進歩だけが残っているような気がする。そして、本来、共同生活ということを前提としてきた人類の進化を、お金と引き換えのサービスにとって換えてしまった社会が目の前にある。
だから、前回のブログに書いたNさんのことも考えると、なんとか健康に、ひとに頼ることなく生きているということが奇跡ではないのかと思えてきたのである。

義理の父も奥さんを亡くして早や6年、2、3年前から宅配弁当のお世話になっている。そんな話を聞くとこれでいいんだろうかと思い、釣ってきた魚をたまには持って行ってあげようよと奥さんに話をしてみるのだが、そんなことしなくていいという。遠慮をしているというのもあるだろうが、ああ、この人も年中同じ食事でもなんとも思わない人なのだろうなと思うと、自分の自由が利かなくなったとき、急速に寿命を縮めるのだろうと思うのである。

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加太沖釣行

2021年12月06日 | 2021釣り
場所:加太沖
条件:中潮 8:01満潮
潮流:8:38上り3.4ノット最強 12:37転流
釣果:マアジ9匹 真鯛1匹

12月に入ってまだ一度も釣りに行けていない。そして、悪天候や母親の2回目の手術もあって休日は2回連続釣りに行けていない。今年もあとわずかなのにこれではまずい。そして、今月2回目の休日であった昨日も風が強い予報となっていた。うわ~、これはまずいとなり、どうしたものかと考えながら、気になっていた有給休暇の消化具合を調べてみる方法はないものかと、会社が使っている勤怠管理システムの中を探ってみたらそれがあったのだ。ウチの会社では自分の有給休暇がどれだけ残っているかを能動的には教えてくれないので大体はまだ使い切っていないだろうという範囲でしか取らない。というか、ある程度責任のあるポストにいた時はほぼ取らないでほぼ全部捨てていたというのが事実であった。しかし、去年からはまったくその状況が変わった。やりたくもない仕事であったし、あの部署はほぼ全員が同じようなことを思っていたのか、みんなけっこう有給休暇を取っていた。僕もそれに倣ったのだが、そのシステムの情報を改めて見てみると、それでも6日間の有給休暇を捨てていた。今思えばもったいない話だ。そして、来年の8月末までに取らないと消えてしまう有給休暇が13日あるということを見つけた。これから先、毎月1回取っても残ってしまう日数がある。今月は年末年始を休んでやろうと企んで最初から大晦日に1日入れていたのだが、じゃあ、もう1日取ってやれと今日にも発作的に入れてやった。ありがたいことに船を出せそうな天気予報だったのだ。世間ではこれをずる休みというのだろうが、今の職場はまったくやる気を起こさせてくれる場所ではなく、職場のほうも特に僕を必要としている風でもない。やれと言われている業務をやれる範囲でやっておれば誰にも文句を言われない。一句作るとしたら、

窓際が 水際求めて ずる休み

というところだろうか・・。


今回も禁断の仕掛けからスタート。今日アタリがなければいったん終了にするつもりだ。そして案の定、まったくアタリがなく終了。水温はまだそれほど低くなっていないようだがベイトがどこかへ行ってしまったのだろうか・・。

今日はカワハギを封印してアジと真鯛狙いに決めている。あれもこれもと手を出すと共倒れになるというのはすでに経験済みだ。

この時間からだと潮流が最強に向かうので朝一はアジを狙って最強時刻を過ぎてから真鯛狙いに変更というプランだ。
さて、どこから始めようかとほかの船の位置を眺めてみると、今日は第2テッパンポイントにいくらかの船が集まっている。上り潮なので僕にも異存はない。



サビキの仕掛けを下すと潮が速いのかかなり斜めに入ってゆく。う~ん、これは釣りにくそうだと思っていると錘が底に着いたとたんにアタリがあった。頭を振らないし底にどんどん入っていくのでこれは間違いなくマアジだ。口を切られないように慎重に引き上げると思いのほか大きなマアジだ。間違いないなくオニアジと言っていいサイズだ。

その後もアタリはポツポツ続く。水深30メートル以上の所がポイントのようでその辺りを行ったり来たりしながら数を稼ぐ。ただ、魚の活性が低いのか、掛かってくるのは一番下と2番目の鉤だけだ。魚は完全に底に張り付いてしまっているようだ。
しかし、釣れる時は何をしていても釣れるようで、パンを食べていても釣れる。手に持ったパンを放り投げて魚とやりとりし、またパンを食べる。デッキに落ちた時点でこのパンには日本の人口に匹敵するほどのウイルスや細菌、バクテリアが付着し、その種類は地球上に存在する民族の数以上はあるだろう。僕はそれを食っても体のどこにも支障をきたさないのだから、コロナウイルスなどまったく恐れるに足らずと思っている。



そして、悪事はブーメランのように自分に帰ってくるというが、ずる休みをしても釣れる時には釣れる。ゴミ拾いをしてみても釣れないし・・・。ということは、善行と釣果にはまったく相関関係はないということが、悲しいかな証明されてしまった・・。

潮流の最強時刻を過ぎ、アジのアタリが遠のいたので真鯛の仕掛けに変更。ポイントはもっと北に上ったところだとは思うが、とりあえずそのままの場所で下してみる。今日は幸運が続くのか、いきなりアタリがあった。食べるにはちょうどくらいの真鯛だ。
ここで調子に乗ってしまった。朝からは帝国軍の船団はナカトの地島寄りのところにできていて、きっと真鯛はあそこだろうと考えていたこともあって、北上をしてみた。



しかし、ここからはまったくアタリがない。やっと1回だけアタリを感じたが、竿の弾力を利用できないほど仕掛けが斜めに入っていて鉤掛かりまでには至らなかった。
その後も帝国軍の船団に肉薄してみたけれども結局アタリはない。



転流時刻まではもう少しあるのでもっと北を目指すという判断もあったがとりあえず獲物はたくさん確保できているので午前10時20分に釣りを終了した。


Nさんの話・・。
隣に係留しているNさんは、僕が海に出ていて彼も出ているときには必ず電話をくれる。大体の場合は僕の方の出船時刻が早いので彼は僕が出ていることは一目瞭然なのだが僕は彼が出ているのかどうかがわからない。だから彼の方から電話をくれるのだ。
しかし、僕は毎度毎度電話に出ていたわけではない。僕の船はエンジン音がやたらと大きく電話の呼び出しベルがまったく聞こえないので港に戻ってきてから電話の着信記録を見てやっと電話をもらったことに気付くのだ。そんなことが数回続いて前回、同時に出船したときにとうとう電話をもらえなくなってしまった。エンジン音で貴重な友情を壊すわけにはいかない。今日はLINEであらかじめ出船してたら電話くださいねとメッセージを送っておいた。ここ数日は荒天が続いていたので今日くらいはきっと彼も出船するだろうと予想していたのだ。
しかし、電話の呼び出し音は鳴らず、LINEの返信だけが帰ってきていた。どうも体調を崩しているらしく釣りどころではないとのことだ。
彼は2年ほど前、予防的手術を受けていて、その影響だという。ちょっとこれは心配だ。次のブロクで健康に生きることの難しさについて少し書こうと思っていたのだが、こんなところにも健康に生きることの難しさがあった。
僕も完全な健康体と言えるようなものではないが、歳とともに健康に生きるということの難しさというか、困難さ、もしくはそれはきっと奇跡の類といっても過言ではないかと思えてしまうのである。

このブログは翌日に書いているのだが、彼に電話をしてみたところ、とりあえずは危機を脱したようだ。しかし、船に乗るのは当分難しそうだという。なんとか以前のように出ないとわかっていても電話をかけてくれるまでに回復をしてほしいと願うばかりだ。

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「開高健の本棚」読了

2021年12月04日 | 2021読書
開高健 「開高健の本棚」読了

開高健記念館に蔵書されている書籍の画像を交えながら師が過去に書いた書評や書籍に関するエッセイ、小説を抜粋してまとめている。

開高健記念館というと、僕は2003年4月の開館1週間後に訪問している。まだ、ブログを書き始めてはいなかったのでどんな行動をしていたかというのを覚えていないが、横浜に住んでいた友人の家に泊まって茅ヶ崎へ向かったことを覚えている。
開高健記念館は師が暮らしていた茅ケ崎市の私邸をそのまま記念館として開放している。記念館がオープンすると聞きなんとか行かねばと東京出張を隠れ蓑にして夢にまで見た地に向かったのだ。
駅前の小さな本屋には師の本がいっぱい売られていて、おそらくすでに絶版になっていたものもあったのだろう、それまで読んだことのない本をかたっぱしから買い求め、記念館へ向かった。そこで見た館内の様子はこの本に掲載されている写真そのままだ。師が生活していた息吹がまだ感じられるようであった。なつかしい。



師は、よい本というのは、そこに鮮烈な一言半句が書かれているものである。言い換えれば、鮮烈な一言半句があればそれで充分であるとよく書いていた。芥川賞の選考委員をしていた時も、作品の中にそんな一言半句があるかどうか、そこだけを見て推薦するかどうかを決めていたという。
そして、書評といえども、師の文章には一言半句が目白押しである。一言半句だらけだとそれはもう一言半句とは言わないのではないかと言われてしまうかもしれないがそうなのだから仕方がない。
最近はめったに師の文章も読むことがなくなり悲しい限りだが、久しぶりに読んでみると強烈な滝のしぶきを浴びたような気持になる。
「わたしのなつかしい一冊」でも書いてみたが、僕のブログも師の足元にでも近づけるような文章を書いてみたいものだと思うのである。

写真集に近い構成なので誰かがその書評について何か解説を書いているようなものではないので、内容としては「開高健は何をどう読み血肉としたか」のほうが濃いものであったと思うのだが、ひょっとしたらこの2冊の本を同時に読み進めることができればもっと師の文学世界に没入できたのではなかったのだろうか・・。

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「釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝」読了

2021年12月03日 | 2021読書
藤澤志穂子 「釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝」読了

著者は元産経新聞の経済記者。半ば左遷のように支局長として配属された秋田県でやたらと釣りキチ三平のキャラクターに出会うことでマンガと経済の関係に興味を持つ。
(ネットでは著者が産経新聞の記者であったということを調べられるのだが、この本のプロフィール紹介では「全国紙の経済記者」とだけ書かれているのだが、なにか事情があるのだろうか・・?)
マンガの原画というのは印刷に回されたあとは著者に返却されいわばゴミのようなものになる。しかし、それが一度市中に出回ると大きな価値を持つものがある。今では海外でも相当な値で取引されるという浮世絵のような現象も起こっている中、秋田県横手市にはマンガ美術館という、日本で初めて「まんが」をテーマにした美術館があるということを知り、その設立に尽力した漫画家が秋田県横手市出身の矢口高雄であったということを知る。
そういったマンガと経済のかかわりについての取材を進めるうちに矢口高雄というひとの人となりやその思いに共感してこの本を書くことになった。
横手市増田まんが美術館は矢口高雄のマンガの原画を蒐集、保存する目的で作られた施設で、当初、「矢口高雄記念館」と名付けられる予定であったが、本人が、自分が死んだあとのことを考えて現在の名前になったそうだ。現代ではマンガもパソコンで描かれるため原画自体が無くなり、酸性紙を使っているために劣化もひどくこういった施設は歴史としてマンガを保存するためにも貴重な存在であるらしい。

特に矢口高雄のファンであるというわけでもなく、この本も図書館の蔵書検索でキーワードを「釣り」と打ち込んだら見つかったというものだった。この本には、釣りキチ三平の影響で釣りを始めた人が多数いて、1970年代の釣りブームを巻き起こしたと書かれているが、おそらく僕は釣りキチ三平には何の影響も受けていないように思う。ただ、マンガに描かれている風景や魚の姿には憧れるものがあった。だから、しかし、ちょうど去年の今頃、矢口高雄が亡くなったというニュースが流れていて、その時に知ったことであるが、この人は30歳でプロデビューという遅咲きの作家だったそうだ。この本にはそういった経緯も詳しく書かれていて、貧しい家庭ながら中学時代の恩師の勧めで高校進学をすることができ、村始まって以来の高校生となり、村始まって以来の銀行員として社会人生活をスタートさせた。そんな人がどうして30歳で安定した職を捨ててまで夢に賭けようとしたのだろうかということには興味があった。

矢口高雄とマンガの出会いは小学制時代。手塚治虫のマンガに感動し、自らも漫画家としても夢を捨てることが出来ずに妻子がいるのにも関わらずひとり上京するのであるが、その時の奥様の言葉がかっこいい。『もし反対したら、あとで一生私を責め続けるに違いない。そのほうが私には耐えられない。だからどうぞおやりなさい。ただし、2人の娘を不幸にすることだけは許しません。』高度経済成長の時代だからどんな職にも就けるという安心感もあったのだろうが、「ゲゲゲの女房」といい、漫画家の奥さんというのは肝っ玉が大きい。また、その期待に応えることができるご本人もやっぱりすごいと思うのだ。

僕も釣りキチのひとりと自負はしているので矢口高雄の名前は知っていたし、「釣りキチ三平」も読んだことがある。しかし実はこの本を読むまではずっと少年チャンピオンに連載されていたマンガだと思い込んでいた。北海道でイトウを釣るという物語は確かにリアルタイムで読んでいた記憶があり、僕はチャンピオン派で一時期であるが毎週それを買っていた時期があるのでその時に連載されていたのがこの編であったのだと思っていたのだ。少年マガジンの連載というのが正解なのだが、僕は一体どこでこのマンガを読んでいたのだろう・・。

自分が描く物語のテーマを、破壊されてゆく自然、廃れてゆく地方に対する危機感とし、そして、かつては悪書と言われたマンガの地位向上を目指すのだということが矢口高雄の目標となった。
そしてそのとおり釣りキチ三平を大ヒットさせたことで自身の自然観、そしてなにより自分が心血を注いだマンガという分野を芸術といえるほどまで高めることができたのである。

テレビのインタビューなんかを見ていると相当温和な感じでどこにそんな強い意志とエネルギーが秘められているのかと思うが、何かひとつを成し遂げる人というのは違うのだろうなと思わせられるのである。もっとも、矢口高雄自身も村始まって以来の高校生であり、村始まって以来の銀行員になったというのだからもともとは相当優秀な人であったのだろうが、人がどう言おうと自分が信じた、自分の好きな道を、人がとやかく言ったとしてもそれを無視して突き進むというのはやっぱりどこか違うのであろう。成功しなければただのバカ者であるとなるのだが、それでも悔いはないと思える人だけが栄冠を勝ち取るチャンスを持っているということだろう。
僕の船を係留している港のもうひとつ奥の港釣りの世界では相当有名な釣り船の船長がいる。聞けば僕とまったく同じ年だそうだ。おそらく小学生の時は僕の港の前にある隣の小学校に通っていたのだと思う。僕もこの辺りではよく魚釣りをしていたのでひょっとしたらすれ違っていたかもしれない。同じ釣り好きでも方や日本を代表するメーカーのプロスタッフ。テレビにも出演し、自らの名前を冠したタックルもプロデュースするほどだ。この人はきっと小さいころからそれこそ釣りキチ三平のように釣りに没頭していたのだろう。おそらく周りからは、「あいつは釣りばっかりやってていっこも勉強しくさらん。」と言われ続けていたに違いない。しかし、結果はどうだ、しがないサラリーマンよりもこの人のほうがよほど地位も名誉も収入もはるかに上に違いない。
自分を信じて突き抜けること、それがないと自分の好きなことをして飯を食っていけないという好例が目の前にあった。もちろん才能という前提はあるのだろうが・・。

文学、特に純文学というのは、自虐、自己批判、孤独というのがベースになっているが、マンガはその対極で、友情、努力、勝利がポリシーだ。そういう意味では、陰陽思想に出てくる対極の考えのごとくマンガも芸術の一端として考えられてもおかしくはないし、発行部数からいくと、純文学の数千倍はいっているということは、実はマンガが正統であって純文学のほうがマイノリティであるのかもしれない。

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獅子ゆずと強風

2021年12月01日 | Weblog
いよいよ今年も残り1か月となってしまった。そして12月最初の休日はすごい風で始まった。この冬最大の縞模様だ。



当然釣りには行けないので今日は港のゴミ掃除に行ってきた。港の駐車場には放置された船が置いてあって、ほぼゴミ置き場状態となっている。僕も持って帰れないごみはついついここに置いてしまう。使わなかったロープの切れ端、カニを取る籠の壊れたやつ。それと、以前海の上に浮かんでいたものを回収した衣装ケースも放り込んだままにしていた。
この前の休みに渡船屋の船頭と立ち話をしていたときに、「誰やねん、ここにごみをっ捨てるやつ!!」なんて言われて、「すみません、一部は僕が捨てました・・。」と暴露してしまった。
年末の大掃除の時期だし、ちょうどいい機会なので家のゴミと一緒に捨てに行くことにした。

夕べは雨も相当降ったのでデッキの上は自動的に大掃除状態になっていた。




車は汚れると嫌なので今日もバイクで出動。三輪車は積載量がダントツに多いのでこれくらいの分量ならまったく問題ない。



しかし、今日のような強風の日は体があおられるのでちょっと怖い。青岸からエネルギーセンターに向かう橋を割るときが最も危ない。
沖を見ても恐怖の白波が立っている。



帽子を飛ばされながらも無事にエネルギーセンターに到着。今日のミッションを終了。

午後からは叔父さんの家でもらってきた獅子ゆずをピールに加工する作業だ。



柚子をスライスし、重さの半分の砂糖をぶち込み汁気がなくなるまで煮る。いつもはラム酒だけを入れるのだが、今日は紹興酒も入れてみた。中国の醸造酒だが、香りはシェリー酒に似ているのではないかといつも思っているので、ホワイトラムとセットでダークラムのような深い香りが再現できるのではないかと思ったのだが、獅子ゆずの香りが強くて入れても入れなくても一緒じゃなかったという感じだ。砂糖の浸透を助けるため、少し水を加えてみたのだが、これは良かったようだ。白い綿が不透明になっているところはほぼなくなっている。

一番面倒な乾かす作業を終え、



鈍色の空を見ながら、冬になってしまった・・。と改めて思うのであった。






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