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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

この1年を振り返る。

2021年12月31日 | Weblog
今年もあとわずか、この1年を振り返る。

振り返るといっても、今年はあまり印象に残った釣りがない。71回も行ってるので僕の記憶容量には入りきらないというのは当然なのだが、満足できるような釣りもなかったということなのだと思う。
去年はコロナ休日がいっぱいあったので相当な回数行ったけれども今年もそれに匹敵する回数になった。大きな台風の襲来がなく、冬に入っても強い冬型の気圧配置の日というものがなかったというのが大きな要因だ。母親の思いもよらぬ癌の病いというのがあったけれども病院に行く前の時間を利用して回数をこなすことができた。近場で魚が釣れている時期を選んで病気になってくれたのが幸いであった。

その中でもなんとか頭の中に残っている釣りは初島で釣ったブリだ



飲ませサビキ釣りに挑み始めて初の大物であり、かつ多分僕の人生最大サイズの大物であった。
その後の釣行でもサワラを釣ることができ、ここでやっとこの釣りのために竿を買った甲斐があったと思ったのだ。



といっても、結局、飲ませサビキはこの2匹で終わってしまったのであるが・・。

新しい釣りでは、去年の年末から始めた加太でのサビキ釣りがある一定の効果を表し始めたのはうれしいことだ。加太で釣れるオニアジは確かに美味しい。真夏に釣れるものでもお腹の中にたくさんの脂を蓄えている。同じ時期にはマルアジも釣れるのだが、今年はこちらに引き寄せられるようになってしまった。



逆に釣れるはずの魚があまり釣れなかった年でもあった。今年だけに限ったことではないが、キスとタチウオは芳しくはなかった。キスは新しいポイントとして紀ノ川河口を教えてもらったが、浜の宮へはとうとう行かずに終わってしまった。



浜の宮はどんどん釣れなくなり、マリーナシティに行ってもたかが数はしれていると思うと足が遠のいた。
ただ、これは思い過ごしなのかもしれないが、浜の宮で釣れるキスの方が美味しいようなきがするのだ。ちょっとした臭みと身の弾力が違うような気がする。シラスのバッチ網が海底をかき回すので卵が孵化しないのだという話を聞いたけれども、自然は少しのバランスの変化で狂ってしまうのかもしれない。
タチウオも紀ノ川河口もダメだったし、加太も洲本もまったくダメだった。紀ノ川河口ではやっぱり20本以上は釣りたいし、沖に行けば大きい魚が欲しいと思うが、どこもダメだった。ブログを見てみると、20匹釣れたのは1回だけであった。



洲本は2回行くことができたが、ただ燃料を使っただけのような気がする。初めて洲本に行った年から比べると半減以下という感じではないだろうか。確かに遊漁船も増えてきて釣りにくくなったのも事実なのかもしれない。



コウイカも目下のところ、5匹が最高だ。せめて1回くらいは二けた釣りたいと思っている。


大した釣果ではなかったものの、禁断の仕掛けに大きな魚が食いついてきてくれたのはうれしいことだ。獲れたのはサワラ1匹だけだが、目の前では1メートルはあろうかというサワラが逃げて行ったし、10号の枝素を切っていった魚もあった。毎年あんな大物が回遊してくるのかどうかはしらないが、来年、もしチャンスがあればもっと大きいやつを仕留めてみたいものだ。



加太ではまったく釣れなかったハマチも限りなくツバスに近かったとはいえこの仕掛けで釣ることができた。悲しいけれども貴重なツバスであった。そういう意味では加太でのメインの魚、真鯛とハマチは芳しくなかった。サバフグの襲来というものが邪魔をしたのかもしれないが、今だハマチを釣り上げることができていない。真鯛も、最後の最後になんとか満足のいく釣果を得たのみだ。これは原因のひとつは確実にいろいろなことをやりすぎているのだ。去年から今年にかけて、ハゲ釣り、サビキが加わり、それにタチウオだ。たかだか4時間ほどの時間にこんなにいろいろ詰め込んだら釣れるものも釣れなくなく。二刀流や七つ道具というのは大谷翔平や弁慶のような超人でなければまともなことはできないのだ。
それまではというと、高仕掛けとガシラ釣りしかしていなかったはずだ。
ただ、そんなことを言っても知ってしまったらあとには戻れない。このままどっちつかずで過ごしてゆくことになるのだと思う。

魚の扱いについてはふたつ得るものがあった。ひとつは神経締めだ。



脳天に穴を開けてワイヤーを突っ込むというのは知っていたが、そんなものうまく入るはずがないと自分ではできないと諦めていたがNさんの手ほどきで80%くらいの確率でやれるようになった。よく考えると、釣ってから2時間以内には魚をさばいているし、翌日に残るほどの釣果を上げているわけではないので宝の持ち腐れのような技術だが、やはりできるとできないとではなんとなく気分が違う。
そしてもうひとつはついこの前買った真空パックマシンだ。これは優れものである。まあ、これももっと魚を釣らなければ宝の持ち腐れになってしまうのであるが・・。

新しい調理法も試した。あんまり釣れなかったサバだったが、水煮はかなりいける。



来年はもっと釣ってもっともっと作りたいと思うのだ。

年末最後の釣りも終わり、それぞれの船に松飾りを取り付け今年のすべては終了した。大きな船の故障もなく、重大事故というものもなく過ごせたというのが一番よかった。

せっかく取った30日、31日の休日も大荒れで終わってしまい、松飾りを取り付けるだけで終わったけれども、来年も釣果は二の次、無理をせず、とにかく安全に1年を過ごしたいものだ。

 

ぺらぺらになってしまった潮時表と友ヶ島水道の潮流表を処分して新しい年の準備をしよう。



「星野道夫の仕事〈第1巻〉カリブーの旅」読了

2021年12月31日 | 2021読書
星野道夫 「星野道夫の仕事〈第1巻〉カリブーの旅」読了

今年最後の本は星野道夫の写真集だ。写真集だから読書と言えないかもしれないがまあ、1冊としておこう。
今年は12月30日から元旦までまとめて休みを取った。就職した年が1987年だったのだが、以来、大晦日に朝から晩まで家にいたことはなかった。30数年ぶりに家で過ごす年末なのでゆったりと写真集でも眺めてみようという考えだ。

星野道夫は写真が好きで写真家になったわけではなかった。アラスカに憧れアラスカで生きるすべとして写真を撮ることを決め、アラスカで出会った生物学者のアドヴァイスに従ってカリブーを追うようになった。亡くなったあと、作品を数冊の写真集にまとめられたうちの1冊である。

カリブーというのはトナカイのことであるが、季節ごとに生活の場を大群で移動する。その大群の数は時として数十万頭となり大地を埋めつくすという。文字では読んだことがあってもそれはどんなものなのか想像するしかなかった。
こんな世界が誰も見ていないところに存在するのか、それでは人間原理というのは一体なんなのかと思える。人が見ていなくても、いなくてもこの世界には変わりはない。人間原理などというものは単に人間が考え出した屁理屈かエゴでしかないのかもしれない。

この本は星野道夫が亡くなったあとに出版されているので、池澤夏樹があとがきのようなものを書いているが、そこに、『カリブーにとって死は悲劇ではなく必然、生に含まれるもの、生きていることの一部である。カリブーたちはそれを知っているから、死を素直に受け取る。』と書いている。では、死を素直に受け取れない人間にとって死は生きていることの一部としては考えられないということだろうか。
たしかにそこのところの折り合いをつけるために宗教が生まれたと考えれば合点がいく。
しかし、死を悲劇と受け取る代わりに希望というものを抱けるようになったというのも人間だろう。絶望しないかぎり人間は希望を抱き続けることができる。失望したなら失ったものを見つければいい。そう思わせてくれる1冊だった。

年末なのでちょっとだけ前向きな感想を書いてみた・・。