イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」読了

2019年09月22日 | 2019読書
奥野克巳 「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」読了

小さいころは学校に行き、その後就職し収入を得る、お金が生活の基盤になる。選挙があって、議員たちがあれこれ話し合って様々なインフラが作られる。自分たちが生きてゆくうえで必要なことが意に沿うかどうかにかかわらず決められるとはいったいどういうことなのか・・・。
現代社会で一般常識と考えられていることは本当に当たり前のことなのか。文明の極みであるロサンゼルスからメキシコの奥地を目指して旅してきた文化人類学者である著者は目の前で行われている様々なことに疑いを持つようになった。

そういった一般常識が社会の問題を複雑化させるのではないかと考えた著者は、ボルネオ島に住むプナンと生活を共にしてその一般常識について深く考えてみようとした。プランテーション農業が入り、文明社会になじんでいるとはいえ、いまでも狩猟採集という、おそらくは人間が文明を持つ以前の生活様式をおこなっている人々は現代社会に生きる我々とは異なった価値観を持ちそれが人間本来の価値基準ではないのか、それと現代人が持っている価値基準と比較することによって人間の根元的なやり方や考え方について考えてみることはできないだろうかという思いを実践してみた考察が綴られている。


プナンの人たちは、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない。「生きるために食べる。」人たちである。彼らはまず、「〇〇のために生きる。」いう言い方をしない。対して現代人は、生きるために食べなければならないという人間的・動物的現実を他のものへと作り変えてしまっている。私たちは、生きること以外の目標を設定して生きることを自らに課している。プナン流の生き方が、私たちの生き方を照らし出してくれる。と著者はいう。

プナンは反省をしないし謝りもしない。借りたものを壊しても謝らないし、逆に、誰かが失敗したり迷惑をかけられたりしても攻めもしない。そして、得たものは必ず均等に分配し、贈られたものは再び誰かに贈り手元に残さないということが美徳とされている。それが当たり前と考えられているから、「ありがとう」という言葉がない。
プナンの死者に対する感覚は、亡くなった人を極力忘れようとする。遺品をすべて廃棄し、肉親の名前までも帰ることで忘れようとし、亡くなった人の名前を呼んだり思い出したりもしてはいけないとされている。

これを読みながら、これはいつか読んだ「正法眼蔵」、道元禅師の考え方にそっくりではないかと思った。その本には、人生とは瞬間、瞬間の積み重ねであってそれにはつながりがない。だから“今だけ”をしっかり生きなさいと書いてあった。

プナンの生き方というのはまさにそれを実践しているように思う。筆者はニーチェの「永遠回帰」「大いなる午後」という考え方になぞらえている。

こう書きながら、正法眼蔵もニーチェもいま三つくらいわからない。
プナンの生活の描写から想像するに、『 “今”というものが一番大切で、過去を悔んだり、未来を悲観するのは無駄なことである。そして隠し事をしてはいけないし、集団は公平に遇されるべきである。すべてはお天道様が見ているぞ。』という感じだろうか。

しかし、世の中をすべて看破したような人たちの最終回答がヒトの一番最初の生き方に近いものであったということはこれこそまさしく「永遠回帰」ということだな。
とわけもわからず感心するのだ・・。
著者はそれが人間らしい生き方と断定はしていない。しかし、こうやって本に書くということはなにか息が詰まりそうなこの世の中よりもプナンのほうがいいのではないかと考えているのだろうが、なかなかそれが難しい。プナンの世界でも物欲というものは子供のころからの生活の中で矯正されてゆくらしい。まあ、あくまでもこれがヒトのいちばん初期の生き方ではなかったのかと見ているだけである。

新聞の書評欄で、今でも売れている本ということで紹介されていた本なのだが、確かに考えるべきものが多い本ではあった。
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