渡辺淳一 「秘すれば花」読了
1年前に読んだ、「風姿花伝」を渡辺淳一が解説をしたものだ。
前回は修行を当たり前のように続けることの大切さやたくさんの引き出しを持つことで人は“花”をもつことができるなどなどいうことが印象に残ったが、小説家の解説では、「人と人との関係に対しては自分を演じる必要があるのだ。」ということが印象に残った。
これは「物学上条(ものまねじょうじょう)」の章に出てくるものだが、ひとつは役を演じる際の身なりの重要性、観客の様子を見て演じ方を変える。パトロン(将軍や貴族)の好みをよく知って演じる。など、小説家は物語のなかで登場人物を演じさせるのが仕事の人だからだろうか、そこをかなりのページ数を裂いて解説をしている。
自分自身や組織、一族を守るために自分を“演じる”。これは芸能の世界でなくても現代にも通じる。人はまず見た目で相手を判断する。清潔な服装の人間は信用されるし、TPOに合わせたコーディネートをできるひとは気が利くと一目置かれる。その場の空気を読んで立ち居振舞うことも必要だろう。上司の太鼓もちをするというのはどうかと思うが、ある程度は顔色を伺って立てるというのもそれは世渡りだ。
「自分であること。」と「自分を演じる。」ということは相反することだろうか。自分を演じるということは相手の心の中にいるであろう自分を予想して演じること。それは相手の数だけ自分があるということ。しかしそれは相手の心の中の自分であって本当の自分ではない。それぞれの相手を見ながら、どんなに演じれば納得させられるかを考えなければならない。
世の中で大人と言われる人はきっとそうやって相手に合わせて自分を演じきれる人。しかし、それを演じているとき、本当の自分はどこにいるのだろうか。幾人もの人の心の中の自分を演じている間に本当の自分がわからなくなってしまったりしないのだろうか。
本当の自分と演じている自分が一致する人は幸せ。しかし、自分じゃない自分を演じ続けるというのは苦痛だ。
苦痛に思わなくなれるように役者は稽古に励み、一般人も感情をコントロールする鍛錬を積む。鍛錬を積めなかった人は自分を演じることをあきらめて人の眼を気にすることを止める。しかし、ここでも気にすることを止められる人は幸せ、しかし、どこかで後ろめたさというようなものを引きずってしまうのが普通だ。
会社の中でまるで自分の家のように振舞うことができる人がうらやましいと思うことがある。このような人もそのように演じているだけかもしれないが、それでもそうできる人がうらやましい。ぼくはいつも自分が外様であると感じてしまう。ここにいる自分は自分ではない。演じているのだ。
だから目の前のことを見るだけで精一杯で、それ以上のことに目配せすることができない。
前に新聞のコラムで読んだ、「基本的に自分の器を大きくすることができない。」というのはそういうことだろうか。
観阿弥のいう、「位」や「長」というものも器と同じ意味だ。人にはそれぞれ持って生まれた度量というものがある。努力をして「嵩」を上げるという道もあるけれども、それは並大抵のことではない。振り返ると僕はそんな努力はしてこなかった。一応、ファッションビジネスの業界に身を置いているのだが、ファッションにはまったくといって興味がない。
「位」や「長」が少ない人はやはり脇役を演ずるより仕方がない。しかし、自由になる時間を削ってまで主役でいるという感覚が僕にはわからない。それは演じている自分と本当の自分に違いがありすぎるのかもしれない。だから、脇役を演じながら少し余裕をもって生きているのが一番楽であったりするのかもしれない。(仕事をしている自分が本当の自分である人は別だが・・・。)
観阿弥はすべてには、「花」が必要で、それもいつも同じ花だと飽きられる。演目でいうと数年間分違う演目があるくらいでなければならないという。すべては「珍しさ」が必要であるという。
師のエッセイで、酒を呑みながら酔っ払い、
「タハ、オモチロイ・・・」
とつぶやく場面が度々出てくる。多分、師が一番幸せを感じるときの表現のひとつであるのだろうが、なんだか「オモチロイ」という言葉がこの「珍しさ」につながっているような気がする。
数年間分とまではいかないが、魚釣りの世界は1年四季を通して変化がありネタも変わる。「一生幸せになりたければ、釣りを覚えなさい。」という師の言葉は、「タハ、オモチロイ・・・」から「珍しさ」「花」へとつながっているのではないかと思うのは飛躍しすぎているであろうか・・・。
1年前に読んだ、「風姿花伝」を渡辺淳一が解説をしたものだ。
前回は修行を当たり前のように続けることの大切さやたくさんの引き出しを持つことで人は“花”をもつことができるなどなどいうことが印象に残ったが、小説家の解説では、「人と人との関係に対しては自分を演じる必要があるのだ。」ということが印象に残った。
これは「物学上条(ものまねじょうじょう)」の章に出てくるものだが、ひとつは役を演じる際の身なりの重要性、観客の様子を見て演じ方を変える。パトロン(将軍や貴族)の好みをよく知って演じる。など、小説家は物語のなかで登場人物を演じさせるのが仕事の人だからだろうか、そこをかなりのページ数を裂いて解説をしている。
自分自身や組織、一族を守るために自分を“演じる”。これは芸能の世界でなくても現代にも通じる。人はまず見た目で相手を判断する。清潔な服装の人間は信用されるし、TPOに合わせたコーディネートをできるひとは気が利くと一目置かれる。その場の空気を読んで立ち居振舞うことも必要だろう。上司の太鼓もちをするというのはどうかと思うが、ある程度は顔色を伺って立てるというのもそれは世渡りだ。
「自分であること。」と「自分を演じる。」ということは相反することだろうか。自分を演じるということは相手の心の中にいるであろう自分を予想して演じること。それは相手の数だけ自分があるということ。しかしそれは相手の心の中の自分であって本当の自分ではない。それぞれの相手を見ながら、どんなに演じれば納得させられるかを考えなければならない。
世の中で大人と言われる人はきっとそうやって相手に合わせて自分を演じきれる人。しかし、それを演じているとき、本当の自分はどこにいるのだろうか。幾人もの人の心の中の自分を演じている間に本当の自分がわからなくなってしまったりしないのだろうか。
本当の自分と演じている自分が一致する人は幸せ。しかし、自分じゃない自分を演じ続けるというのは苦痛だ。
苦痛に思わなくなれるように役者は稽古に励み、一般人も感情をコントロールする鍛錬を積む。鍛錬を積めなかった人は自分を演じることをあきらめて人の眼を気にすることを止める。しかし、ここでも気にすることを止められる人は幸せ、しかし、どこかで後ろめたさというようなものを引きずってしまうのが普通だ。
会社の中でまるで自分の家のように振舞うことができる人がうらやましいと思うことがある。このような人もそのように演じているだけかもしれないが、それでもそうできる人がうらやましい。ぼくはいつも自分が外様であると感じてしまう。ここにいる自分は自分ではない。演じているのだ。
だから目の前のことを見るだけで精一杯で、それ以上のことに目配せすることができない。
前に新聞のコラムで読んだ、「基本的に自分の器を大きくすることができない。」というのはそういうことだろうか。
観阿弥のいう、「位」や「長」というものも器と同じ意味だ。人にはそれぞれ持って生まれた度量というものがある。努力をして「嵩」を上げるという道もあるけれども、それは並大抵のことではない。振り返ると僕はそんな努力はしてこなかった。一応、ファッションビジネスの業界に身を置いているのだが、ファッションにはまったくといって興味がない。
「位」や「長」が少ない人はやはり脇役を演ずるより仕方がない。しかし、自由になる時間を削ってまで主役でいるという感覚が僕にはわからない。それは演じている自分と本当の自分に違いがありすぎるのかもしれない。だから、脇役を演じながら少し余裕をもって生きているのが一番楽であったりするのかもしれない。(仕事をしている自分が本当の自分である人は別だが・・・。)
観阿弥はすべてには、「花」が必要で、それもいつも同じ花だと飽きられる。演目でいうと数年間分違う演目があるくらいでなければならないという。すべては「珍しさ」が必要であるという。
師のエッセイで、酒を呑みながら酔っ払い、
「タハ、オモチロイ・・・」
とつぶやく場面が度々出てくる。多分、師が一番幸せを感じるときの表現のひとつであるのだろうが、なんだか「オモチロイ」という言葉がこの「珍しさ」につながっているような気がする。
数年間分とまではいかないが、魚釣りの世界は1年四季を通して変化がありネタも変わる。「一生幸せになりたければ、釣りを覚えなさい。」という師の言葉は、「タハ、オモチロイ・・・」から「珍しさ」「花」へとつながっているのではないかと思うのは飛躍しすぎているであろうか・・・。