イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「苦味(ビター)を少々―399のアフォリズム 」読了

2017年05月06日 | 2017読書
田辺聖子 「苦味(ビター)を少々―399のアフォリズム 」読了

いつも気になる本があると携帯電話(スマホではない。)の簡易メモというフォルダに書き込んでおいて古本屋や図書館で探している。この本もそんな1冊だった。いつ記録したかはメモを削除してしまったので覚えていないが多分、4、5年前からメモの中にあったのではないだろうか。久しぶりに立ち寄った古本屋に108円で売られていた。長らく探していたものだけに中身を見ずに買ってしまった。

田辺聖子のエッセイだと思っていたら、著作から抜粋されたもので、それを箴言としてまとめられている。
師の著作でもそうだが、やはり切り取られたものというのは言葉の輝きを失ってしまう。その中でも、これには共感できると思うものをいくつか取り上げてみることにする。

・私にいわせれば、飽かないから遊びなのであって、飽くのは単なるヒマつぶしである。
・自分が浮かれていることを他人に悟られて平気な人、というのは強い、捉われない人である。
・たべものに夢中になる人間というのは、私の感覚によれば、たいがい利己主義者である。
・「人を責めることが大好きな人があるね、正義の味方には」
・退屈しない人、というのはヒトリで遊べる人なのである。ヒトリで遊べる人、というのは強い人である。
・満ちたりている人間、というのは周囲(はた)から見ると排他的でエゴでいやらしく見えるものである。


解説で山田太一が、初めから終わりまでどこを開いても、あ、と思う。そうか、と思う。共感したり、虚を突かれたり、うまいことをいうなあ、と思ったり、教えられたりしてしまう。と書いているが、なかなか僕にはそう思えるものがなかった。
女性がかいたものだから女性にしかわからないものが多いのかもしれないが、それより人間ができていないということだろう。

バカリズムというタレントは、バカ+リズムの造語かと思っていたが、きっとこの、“アフォリズム”という言葉をモジッたものではないだろうかとふと思った。人間ができていないのでこんなことくらいしか思い浮かばなかった・・・。
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紀の川河口釣行

2017年05月06日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口
条件:若潮 3:34満潮
釣果:ボウズ

ゴールデンウイークの最中だが休みの日程の都合で2連休を取ってしまった。本当は休日出勤でもしなければならないとことだが、往復4時間を考えると体が動かない。
小船のエンジンも回していないので性能維持を兼ねて紀ノ川河口へ行ってみた。
今回は新型兵器として小型のプラスチックワームとジグヘッドを準備。しかしやっぱりアタリがなく、あっという間に夜明けを迎えて終了。

朝焼けがきれいだったことだけが救いだ・・・。

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「私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝」読了

2017年05月06日 | 2017読書
中原一歩 「私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝」読了

以前にも書いたが、最近読んだ新聞のコラムに、「基本的に、自分の器を大きくすることはできない。」という一文があった。
そういう意味では小林カツ代という人は相当大きな器を持った人であったのだろう。

30歳を過ぎてテレビ局に投書したことがきっかけで料理研究家としてスタートしたそうだ。それまでは普通の主婦で結婚するまではほとんど料理をしたことがなく、味噌汁に出汁を入れることさえも知らなかったらしい。実家は大阪のそこそこの大きさの商家であったらしく、小さい頃から一流の料理を食べ、舌は相当肥えていた。その味覚を元に夫に美味しい料理を食べさせたい一身で料理を覚えたとか。

この人の信条は、「興味を持つ、知識を得る、行動に移す、世界が広がる。」というもので、もともと行動力とチャレンジ精神は旺盛で、ラッキョウは塩漬けしてから酢に漬けなくてもちゃんとラッキョウ漬けになるということを聞いたことがきっかけで、料理というもの手抜きをすることなくもっと簡単にできて美味しくなる。ひいては時間の節約になり、仕事を持った人でも家族に美味しい料理を食べさせることができることをひたすら伝えたいということだったらしい。それが1万を超えるレシピを考案する原動力になった。

まあ、普通の主婦の人たちでもそんな考えをもった人たちはたくさんいるけれども、ここまで有名になることができるというのはご本人の努力や生まれ育った環境もしかりだが、もともとの器が大きかったかということにほかならないと思うのだがどうだろう。
この人もやはり、簡単に美味しい料理の作り方を広めることが社会貢献になると考えて行動してきたのだろうが、そこが大きな器と、穴が開いた小さな器かの分かれ目になるような気がする。
大きな仕事を成し遂げるには、今の仕事と直接関係のない、異質なコミュニティを持つことが有用であり、幅の広いさまざまな体験や勉強を通じて、自らはどんな目的や意義を持って働きたいのか、どう社会に貢献したいのか、という社会的使命感を育むことが大事だとネットのコラムに書いていたが、この人もイラストレーターを目指したり合唱団を作ったりと様々なことを経験してきたというが、それも一般人より大きな器を持っているからこそできる技でもあるのだろうか。
僕には世間に迷惑をかけてはいけないという認識はあれども、社会に貢献しなければならない使命感というものがどうもわからない。

ただ、それが幸せに生きることに直結しているのかというとどうなんだろうか。多忙を極めたことが仇になり、くも膜下出血で植物状態になり、その前に夫とも別れてしまっていたそうだ。それでもこの人はベッドの中で人生をやり遂げたと思っていたのだろうか。
大きい器なんかを持っていたら持て余してしまう、穴の開いた器しか持っていない人間には、そこまでして料理しなくてもいいのじゃないだろうかなんてしか感想が浮かばなかった。

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