イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

紀の川河口釣行

2017年05月06日 | 2017釣り
場所:紀ノ川河口
条件:若潮 3:34満潮
釣果:ボウズ

ゴールデンウイークの最中だが休みの日程の都合で2連休を取ってしまった。本当は休日出勤でもしなければならないとことだが、往復4時間を考えると体が動かない。
小船のエンジンも回していないので性能維持を兼ねて紀ノ川河口へ行ってみた。
今回は新型兵器として小型のプラスチックワームとジグヘッドを準備。しかしやっぱりアタリがなく、あっという間に夜明けを迎えて終了。

朝焼けがきれいだったことだけが救いだ・・・。

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「私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝」読了

2017年05月06日 | 2017読書
中原一歩 「私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝」読了

以前にも書いたが、最近読んだ新聞のコラムに、「基本的に、自分の器を大きくすることはできない。」という一文があった。
そういう意味では小林カツ代という人は相当大きな器を持った人であったのだろう。

30歳を過ぎてテレビ局に投書したことがきっかけで料理研究家としてスタートしたそうだ。それまでは普通の主婦で結婚するまではほとんど料理をしたことがなく、味噌汁に出汁を入れることさえも知らなかったらしい。実家は大阪のそこそこの大きさの商家であったらしく、小さい頃から一流の料理を食べ、舌は相当肥えていた。その味覚を元に夫に美味しい料理を食べさせたい一身で料理を覚えたとか。

この人の信条は、「興味を持つ、知識を得る、行動に移す、世界が広がる。」というもので、もともと行動力とチャレンジ精神は旺盛で、ラッキョウは塩漬けしてから酢に漬けなくてもちゃんとラッキョウ漬けになるということを聞いたことがきっかけで、料理というもの手抜きをすることなくもっと簡単にできて美味しくなる。ひいては時間の節約になり、仕事を持った人でも家族に美味しい料理を食べさせることができることをひたすら伝えたいということだったらしい。それが1万を超えるレシピを考案する原動力になった。

まあ、普通の主婦の人たちでもそんな考えをもった人たちはたくさんいるけれども、ここまで有名になることができるというのはご本人の努力や生まれ育った環境もしかりだが、もともとの器が大きかったかということにほかならないと思うのだがどうだろう。
この人もやはり、簡単に美味しい料理の作り方を広めることが社会貢献になると考えて行動してきたのだろうが、そこが大きな器と、穴が開いた小さな器かの分かれ目になるような気がする。
大きな仕事を成し遂げるには、今の仕事と直接関係のない、異質なコミュニティを持つことが有用であり、幅の広いさまざまな体験や勉強を通じて、自らはどんな目的や意義を持って働きたいのか、どう社会に貢献したいのか、という社会的使命感を育むことが大事だとネットのコラムに書いていたが、この人もイラストレーターを目指したり合唱団を作ったりと様々なことを経験してきたというが、それも一般人より大きな器を持っているからこそできる技でもあるのだろうか。
僕には世間に迷惑をかけてはいけないという認識はあれども、社会に貢献しなければならない使命感というものがどうもわからない。

ただ、それが幸せに生きることに直結しているのかというとどうなんだろうか。多忙を極めたことが仇になり、くも膜下出血で植物状態になり、その前に夫とも別れてしまっていたそうだ。それでもこの人はベッドの中で人生をやり遂げたと思っていたのだろうか。
大きい器なんかを持っていたら持て余してしまう、穴の開いた器しか持っていない人間には、そこまでして料理しなくてもいいのじゃないだろうかなんてしか感想が浮かばなかった。

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加太沖釣行

2017年05月05日 | 2017釣り
場所:加太沖
条件:長潮 9:26干潮
潮流:5:55転流 9:00 下り2.0ノット最強 12:10転流
釣果:ガシラ 8匹

今日は今シーズン最後の真鯛狙いだと気合を入れて午前4時半に出港したものの、全然アタリも取れずに終わってしまった。



潮が小さいので帝国軍は中ノ瀬戸に集結していたけれども、さすがにあそこには行けない。



すぐに潮が下ってくるので定番のコイズキで時合を待つ。水深60メートルから30メートルまで、いろいろな場所で流してみたが、一度だけアタリかな?と思うような感じがあって、鈴鹿市のピンクビニールが失っていただけで終わってしまった。
午前9時からいつものガシラポイントで少しだけおかずを2時間釣って終了。救いは釣れたガシラの型がまずまずであったことだけだ。
そのガシラもなかなかアタリが来ない。まったく散発的であった。


今日の空はほぼ夏の空になっていた。20日前はカッパを着ての出港であったが今日はヤッケのみ。この急激な気温の上昇が原因か、それとも紀伊半島の南にあった低気圧からのうねりが原因か・・。



今日の言い訳は難しい・・・。



あまりにもアタリがなくて、今日も船上で替え歌作り。
柏原芳恵の名曲、「春なのに」のメロディで口ずさんでいただきたい。


へたくそだけが理由でしょうか?
全然ダメだと 右手を振って
頑張ってねと~ それだけですか~?
むこうで誰かが釣り上げてま~す。
逃げてく~魚たちを 追いかけて~、
捕まえたいけれど~。
初夏なのに どうしてですか
初夏なのに 魚が釣れません
初夏なのに 春なのに
ボウズがまたひと~つ。


記録:
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山菜採り Ⅱ

2017年05月02日 | Weblog
山菜の旬は短い。
海も気になるが、この時期ははやり山だ。

去年からは母親の同行がなくなったので朝は早い時間に出発できる。(釣りに出る時間と同じくらいだ。)
早朝の高原は独り占めの世界だ。山の向こうから昇ってくる朝日はなんだか荘厳な雰囲気だ。



山の稜線も素晴らしい。



最近見た映画の登場人物の台詞に、
「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきたのだとしたら、何かになれなかったとしても生きている意味があるのよ。」
とあったが、確かにそうなのだと思える。生きる意味とはただ、季節の移ろいをしっかりこの胸に刻むことではないのか。今日の高原は北風が強く、その台詞がいっそう際立っていた。


前回はまだまだ小さかったコシアブラは十分食べられる大きさになっている。さらに今日はいつもお世話になっている森に暮らすひまじんさんの案内でたくさんのコシアブラを採ることができた。
今年もたっぷり味わえる。



つい、数年前までタラノメが最高の山菜だと思っていたのだが、それが限りなく揺らいでしまうのがこのコシアブラの味だ。
最近は競争が激しくて、案内してもらった場所もいつまで安泰か、それが不安である。そんな中、新しいタラノメの木を見つけた。しかし、ここまでの道のりは厳しい。ただ、来年は遭難覚悟でアプローチをしたくなるほどの良い群落だ。この状態を見ると、誰も盗ったことがない木に違いない。



この木を見つける手段は双眼鏡だ。最近新聞記事を賑わせている“共謀罪”だが、「ビールと弁当は花見だが、双眼鏡と地図は危ない。」らしい。僕のウエストポーチには地図は入っていないものの双眼鏡はもとより、ペンチ、ナイフ、仕事人なら確実に人を殺せるピックなどが常備されている。



はたして、山の中で職質されたとき、僕は逃げ切れることはできるのだろうか・・・。


一番たくさん採ることができるワラビは前回に比べてはるかに大きくなっている。



画像のワラビはちょっと貧弱だが、僕のお気に入りのポイントに行くと、軸が太くて赤みがかって柔らかいワラビがたくさん生えていた。前回に比べて大きさはゆうに3倍になっている。袋に溜まっていくワラビの量も3倍だ。その時は僕は標準仕様の3倍の能力を持つシャァアズナブルが操縦する赤いモビルスーツに乗っている気分になるのだが、ニュータイプではではなくてただの中年のおっさんであるわけで、鋭い勘は働かず、ヤマウドは苦戦。なんとか今日の夕飯のおかずにはなったというものの、やはり、ヤマウドは難しい。



そんなこんなで、今日もたくさんの山菜を手にすることができた。
春は待ってくれない。今年の春も過ぎ去ってゆく。しかし、この世、それも世間の汚さを感じないこの世を見る尊さと思うのは大げさすぎるのだろうか・・・。




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