小林真大/著 片岡 力/編集 『文学のトリセツ 「桃太郎」で文学がわかる!』読了
僕がブログを書き始めた最初の理由というのが、記憶力がないからということだった。記憶力が極端に悪いので過去に魚が釣れた時の状況や以前にどんな本を読んだのかということを覚えていられない。だから記録に残しておこうとブログを書き始めた。
本の記憶については、井上靖の「黒い蝶」という小説を思い出す。最後の2ページ目くらいになってやっと、あれ、これ、前に読んだことがあるぞ、と、記憶が呼び戻されたことがあった。途中でもなんだか、デジャヴみたいな感覚に襲われていたのだが、最後のシーンでそれが確実になった。だから、無意識に、ダブって読まないように、機会があれば、自分の読書歴のようなものを残したいと思っていたのだ。そして、ふたつめの理由もある。それは学生時代の読書感想文の宿題の悪夢だ。作文は大嫌いで、夏休みの宿題で読書感想文を出せいうのは高校1年生の時が最後だったと思うが、その時の感想文は核爆弾で紙の分子までバラバラにしてしまいたいほど恥ずかしいものであった。だから、もうちょっとましな感想文を書けるようになりたいと思っていたのだ。そして、ブログというツールはそういうことにはものすごく便利なツールであったのだ。
この本は、桃太郎を題材にして、「書評」とはどういうものなのか、その技法と歴史を解説している。僕のブログはただの感想文に過ぎないが、そこに多少なりとも書評というような高尚なエッセンスを3スコビルくらいは混ぜてみたいと思い読んでみた。
奇をてらったのか、「桃太郎」を題材には使っているが、それを抜きにしても十分理解と納得を得られる内容であった。
まずは「文学」とは何かというところから解説は始まる。
文学が文学である基準とは、その作品が権力者にとって「文学」であるかどうかというのである。権力者というのは政治的な権力者ばかりではなく、おそらく、「重鎮」と呼ばれている人たちもその中にはいるのだろう。そういう人たちに認められなければ世の中では文学と認められない。師も、芥川賞を取ったときの感想で、「これで世間から小説家として認められた。」と書いていたが、そういうことだろう。なんとも恣意的なものである。
また、文学というものが生まれた背景としてはこう書かれている。科学の発展により、宗教の権威が落ちたことで支配者階級は教会に代って新たな道徳(庶民をコントロールするための道徳として。)が必要になった。そこで文学というものを代わりに使おうとしたというのである。
だから、それが権力者たちにとって都合のいいことが伝えられているからというわけではないだろうが、著者は、文学を学ぶ必要性を、批判的思考力を養うことが重要であるからという。これは現在ではフェイクニュースが氾濫する中、自分でリテラシーを持つということが特に必要なのである。
文学批評にはいくつかの手法がある。この本では、構造主義批評、脱構造主義批評、精神分析批評、マルクス主義批評、フェミニズム批評、ポストコロニアル批評という手法などが解説されている。
まず、批評には主観的批評、客観的批評というふたつの大きな分類がある。
主観的思考とは、「印象批評」と言われるスタイルで、これには質が批評家自身の教養に依存する。『鋭敏な感性を培い、個人的な印象に忠実であろうと努めるなら、優れた批評をおこなうことができるはずだ。』というとおり、批評家自身の幅広い教養の高さが必要なのである。ヨーロッパでは、20世紀に入るまでは文学の価値は自分たちの感性によって判断されるべきだと考えられていたのだ。
それに対して、客観的思考は「ニュークリティシズム」と呼ばれ、主観性を重視するのではなく、厳密かつ客観的に文学作品を分析するという考えである。いわゆる、「科学的」な批評はシステマティックで論理的であるというのである。
この本に書かれている批評手法は、すべてその客観的思考に基づく批評方法について書かれている。
構造主義批評とは、
かつては私小説が純文学とよばれ、高く評価されてきた。それは、文学作品をその内容によって判断しようとし、自己の経験や心境をあるがままに描く私小説が高く評価されたからである。
対象を二項対立に分析し、対比しながら批評してゆく構造主義批評が生まれたことで低く見られていた大衆文学も評価に値するものとなった。
善/悪、光/闇、肉体/精神というような対立するキーワードを見つけ出し物語の構造を見つけだすものである。
最大の成果は物語論の体系化をすることができるようになったことである。これはストーリーの型を研究することで、英語や日本語のようの文法のように法則があるということを見出すことができたということである。
例えば、物語の空間的な枠組み、登場人物を「動的な登場人物」と「不動的な登場人物」に分けるというようなものである。
脱構築主義批評とは、
しかし、構造主義批評には、対象の価値判断については一切関知しないと問題点がある。そして、社会システムに反映させたとき、上下関係を生みだすという問題点も含んでいる。
そして、その問題点を克服するために考え出されたのが、「脱構築」というものである。
『文学を脱構築するということはその社会的な矛盾に気付くことである。』と、ジャック・デリダという哲学者は言う。
物語の意味を一つに固定しないというスタンスであり、いろんな解釈ができるテクストの特質を「アポリア」とよぶ。それは、結局、結論は出ないということを表している。
だから、脱構築主義とはすべての価値を否定するニヒリズムに過ぎないという批判を浴びることになるのである。
精神分析批評とは、
エディプスコンプレックス、子供時代の記憶の欠如からくる不安などが、「存在理由を知り得ないことへの不安」と「それを知りたいという欲求」をもたらし、物語の中に意識的、無意識的に限らず反映されているというのである。それを、精神分析の手法をつかって明らかにするというのがこの批評である。
こういった妄想が根底となり、どのジャンルの小説においても語られているのは家族であるという。そしてそれにはふたつのタイプがある。
ひとつは、もう一人の自分を妄想し、理想を追い求めようとする「ロマン主義文学」である。ファミリーロマンスともよばれ、高貴な生まれの子が、不幸な境遇に置かれながらも頑張って成功するストーリー、いわゆる貴種流離譚もそのひとつである。
もうひとつは、「リアリズム文学」というもので、父親から見捨てられているという考えから生まれる、残酷な現実を追求しようとする文学である。
なるほど、これはSF作品の数々とも合致する。ルーク・スカイウォーカーは父との葛藤に悩み、なおかつ強力なフォースをもった一族というある種貴種流離譚でもある。最後のシリーズの主人公のレイも最後にその血筋のよさが明るみにされる。アムロ・レイも父を捨てる。シャァ・アズナブルはジオンの忘れ形見であるというのは貴種流離譚であり、ララァに母の面影を見るというエディプスコンプレックスを含んでいる。碇シンジと碇ゲンドウはそれぞれ母であり妻である碇ユイの面影を追いながら葛藤する。そしてすべては家族の物語と言えそうだ。まあ、この辺は、人間関係の一番プリミティブな部分というのは家族なのだから結局そうなるはずなのだ。他人との関係なら、面倒くさかったら切ってしまえば物語を終えることができる。夫婦関係もそれに似ているか・・。逆に、田舎の人間関係のほうが家族関係に近いのかもしれない。
著者は、精神分析による文学理論は、『もはや、作家の意識というものは批評の対象とはなりえず、むしろ、作者自身さえも気付いていない差別意識やイデオロギーを作品の中から明るみに出す研究になった。』と言い、無意識にでも、『満たされない恥ずかしい欲求を、想像の中で満たそうとする人間が小説家になる。」とも言う。
作者自身さえも気付いていないとなるとそこまで批評してどうするの?とも思いたくなる。遠藤周作は自分の書いた文章が出題されていた入試問題を解いたら間違ったというようなことをエッセイに書いていたが、こういうことを読むと、きっとそういうこともあるのだと思えてくる。
それぞれの批評は確かにけっこう当たっていると思うが、これでは物語の構造を分析しているだけで、そこからどんな批評が考えられるかということがわからない。たしかに客観的な分析をしているにすぎないように思う。うちの会社でもよくあることだが、データだけあるが、そこから誰も何も対策を見出せないのと同じことなのかもしれない。
結局、解釈はそれぞれでやってくれということなのだろう。
それ以降の、マルクス主義批評、フェミニズム批評、ポストコロニアル批評というものは、前者の手法を使い、意識的、無意識的にかかわらず、物語が含んでいる社会的な問題点を浮き彫りにするというものであるので手法というよりも応用という感じがする。マルクス主義批評は経済格差を、フェミニズム批評はジェンダー、ポストコロニアル批評は人種間差別を取り扱う。この手法で行くと、これから先はLGBTQやIT格差、都市と地方の格差、そういったものもひとつの批評スタイルとして確立してゆくのかもしれない。
事実、障がい者が文学の中でどのように表現されているかということを批評するという分野も現れている。それを障害学批評という。そのほか、データ化された文章から単語ごとの出てくる頻度などから文学を批評しようという人文情報学批評などという手法、エコロジーという面からアプローチするエコクリティシズム批評という手法なども作られている。
大学の文学部というところは、こういうことを勉強しているのだということを初めて知った。
また、新たな批評の形として、「カルチュラル・スタディーズ(文化研究、文化理論)」という手法が生まれた。といっても端緒は1964年と半世紀以上前だが。対象が文学だけではなく、ポップアート、映画、CMといったジャンルも対象になること、先に取り上げたいろいろな手法を組み合わせて批評をおこなうことというのが特徴で、こういたアプローチの方法を、「プリコラージュアプローチ」という。
当初の批評というものは、古典文学と言われるものを対象に繰り広げられてきた。いわゆる、「ハイカルチャー(高級文化)」が対象だ、しかし、圧倒的多数の民衆はそういったものよりも、「マスカルチャー(低俗文化)」に親しむことがほとんどだ。おそらく、国民に対して何かを喚起させる恣意的なイデオロギーはこういったものを通して発信されるであろう。あるひとつのことばに別の意味を含ませて発信しながらある思想を植え付けようとする。ヒトラーの行動はその一例である。
だから、本当の社会を反映させて文学を読み解くには大衆がどう受け止めているか、受け止める可能性があるか、そういうことを分析、批評しなければならない。
これを、「コノテーション」と呼ぶそうだが、それを顕在化(ディノテーション)し国民に注意を喚起する、その役割が「カルチュラル・スタディーズ」であるというのだ。
これが一番しっくりくる考えであるように思えた。
しかし、結局は、『文学はそういった様々な解釈を言葉のずれとして楽しむものであるということになる。』ということで、そのためには、『小説の一文一文を丹念に読み進め、その曖昧性に注目し、自由に様々に連想をするのである。』となる。特に素人レベルでは。
いい評論とは、『評論が人の心を動かし共感を与えるためには、論理の展開がなるほどという妥当性をもっていなければならないのはもちろんだが、主張そのものの中で読者をハッとさせるような個性的な批評が含まれていることが不可欠である。』というのだが、いつも急いで読み飛ばしてばかりの僕はこれからも適当に思いつくままに書き続けるただの読書感想文ということになりそうだ・・。
結局、桃太郎の物語の批評についてのことはところどころ、ほんのわずか、申し訳程度に書かれているだけだった。別の批評例としてわざわざカミュの「異邦人」を取り上げているほどだ。多分、タイトルとしては、「この方が売れるで!」という編集者の意向に著者が逆らえなかったというようなところだろうが、冒頭に書いた通り、そんなことをしなくてもこの本は十分価値のある本だと思う。売れる本とその中身というのは決してリンクしないという、文学の奥深さを身をもって証明する本であった。
僕がブログを書き始めた最初の理由というのが、記憶力がないからということだった。記憶力が極端に悪いので過去に魚が釣れた時の状況や以前にどんな本を読んだのかということを覚えていられない。だから記録に残しておこうとブログを書き始めた。
本の記憶については、井上靖の「黒い蝶」という小説を思い出す。最後の2ページ目くらいになってやっと、あれ、これ、前に読んだことがあるぞ、と、記憶が呼び戻されたことがあった。途中でもなんだか、デジャヴみたいな感覚に襲われていたのだが、最後のシーンでそれが確実になった。だから、無意識に、ダブって読まないように、機会があれば、自分の読書歴のようなものを残したいと思っていたのだ。そして、ふたつめの理由もある。それは学生時代の読書感想文の宿題の悪夢だ。作文は大嫌いで、夏休みの宿題で読書感想文を出せいうのは高校1年生の時が最後だったと思うが、その時の感想文は核爆弾で紙の分子までバラバラにしてしまいたいほど恥ずかしいものであった。だから、もうちょっとましな感想文を書けるようになりたいと思っていたのだ。そして、ブログというツールはそういうことにはものすごく便利なツールであったのだ。
この本は、桃太郎を題材にして、「書評」とはどういうものなのか、その技法と歴史を解説している。僕のブログはただの感想文に過ぎないが、そこに多少なりとも書評というような高尚なエッセンスを3スコビルくらいは混ぜてみたいと思い読んでみた。
奇をてらったのか、「桃太郎」を題材には使っているが、それを抜きにしても十分理解と納得を得られる内容であった。
まずは「文学」とは何かというところから解説は始まる。
文学が文学である基準とは、その作品が権力者にとって「文学」であるかどうかというのである。権力者というのは政治的な権力者ばかりではなく、おそらく、「重鎮」と呼ばれている人たちもその中にはいるのだろう。そういう人たちに認められなければ世の中では文学と認められない。師も、芥川賞を取ったときの感想で、「これで世間から小説家として認められた。」と書いていたが、そういうことだろう。なんとも恣意的なものである。
また、文学というものが生まれた背景としてはこう書かれている。科学の発展により、宗教の権威が落ちたことで支配者階級は教会に代って新たな道徳(庶民をコントロールするための道徳として。)が必要になった。そこで文学というものを代わりに使おうとしたというのである。
だから、それが権力者たちにとって都合のいいことが伝えられているからというわけではないだろうが、著者は、文学を学ぶ必要性を、批判的思考力を養うことが重要であるからという。これは現在ではフェイクニュースが氾濫する中、自分でリテラシーを持つということが特に必要なのである。
文学批評にはいくつかの手法がある。この本では、構造主義批評、脱構造主義批評、精神分析批評、マルクス主義批評、フェミニズム批評、ポストコロニアル批評という手法などが解説されている。
まず、批評には主観的批評、客観的批評というふたつの大きな分類がある。
主観的思考とは、「印象批評」と言われるスタイルで、これには質が批評家自身の教養に依存する。『鋭敏な感性を培い、個人的な印象に忠実であろうと努めるなら、優れた批評をおこなうことができるはずだ。』というとおり、批評家自身の幅広い教養の高さが必要なのである。ヨーロッパでは、20世紀に入るまでは文学の価値は自分たちの感性によって判断されるべきだと考えられていたのだ。
それに対して、客観的思考は「ニュークリティシズム」と呼ばれ、主観性を重視するのではなく、厳密かつ客観的に文学作品を分析するという考えである。いわゆる、「科学的」な批評はシステマティックで論理的であるというのである。
この本に書かれている批評手法は、すべてその客観的思考に基づく批評方法について書かれている。
構造主義批評とは、
かつては私小説が純文学とよばれ、高く評価されてきた。それは、文学作品をその内容によって判断しようとし、自己の経験や心境をあるがままに描く私小説が高く評価されたからである。
対象を二項対立に分析し、対比しながら批評してゆく構造主義批評が生まれたことで低く見られていた大衆文学も評価に値するものとなった。
善/悪、光/闇、肉体/精神というような対立するキーワードを見つけ出し物語の構造を見つけだすものである。
最大の成果は物語論の体系化をすることができるようになったことである。これはストーリーの型を研究することで、英語や日本語のようの文法のように法則があるということを見出すことができたということである。
例えば、物語の空間的な枠組み、登場人物を「動的な登場人物」と「不動的な登場人物」に分けるというようなものである。
脱構築主義批評とは、
しかし、構造主義批評には、対象の価値判断については一切関知しないと問題点がある。そして、社会システムに反映させたとき、上下関係を生みだすという問題点も含んでいる。
そして、その問題点を克服するために考え出されたのが、「脱構築」というものである。
『文学を脱構築するということはその社会的な矛盾に気付くことである。』と、ジャック・デリダという哲学者は言う。
物語の意味を一つに固定しないというスタンスであり、いろんな解釈ができるテクストの特質を「アポリア」とよぶ。それは、結局、結論は出ないということを表している。
だから、脱構築主義とはすべての価値を否定するニヒリズムに過ぎないという批判を浴びることになるのである。
精神分析批評とは、
エディプスコンプレックス、子供時代の記憶の欠如からくる不安などが、「存在理由を知り得ないことへの不安」と「それを知りたいという欲求」をもたらし、物語の中に意識的、無意識的に限らず反映されているというのである。それを、精神分析の手法をつかって明らかにするというのがこの批評である。
こういった妄想が根底となり、どのジャンルの小説においても語られているのは家族であるという。そしてそれにはふたつのタイプがある。
ひとつは、もう一人の自分を妄想し、理想を追い求めようとする「ロマン主義文学」である。ファミリーロマンスともよばれ、高貴な生まれの子が、不幸な境遇に置かれながらも頑張って成功するストーリー、いわゆる貴種流離譚もそのひとつである。
もうひとつは、「リアリズム文学」というもので、父親から見捨てられているという考えから生まれる、残酷な現実を追求しようとする文学である。
なるほど、これはSF作品の数々とも合致する。ルーク・スカイウォーカーは父との葛藤に悩み、なおかつ強力なフォースをもった一族というある種貴種流離譚でもある。最後のシリーズの主人公のレイも最後にその血筋のよさが明るみにされる。アムロ・レイも父を捨てる。シャァ・アズナブルはジオンの忘れ形見であるというのは貴種流離譚であり、ララァに母の面影を見るというエディプスコンプレックスを含んでいる。碇シンジと碇ゲンドウはそれぞれ母であり妻である碇ユイの面影を追いながら葛藤する。そしてすべては家族の物語と言えそうだ。まあ、この辺は、人間関係の一番プリミティブな部分というのは家族なのだから結局そうなるはずなのだ。他人との関係なら、面倒くさかったら切ってしまえば物語を終えることができる。夫婦関係もそれに似ているか・・。逆に、田舎の人間関係のほうが家族関係に近いのかもしれない。
著者は、精神分析による文学理論は、『もはや、作家の意識というものは批評の対象とはなりえず、むしろ、作者自身さえも気付いていない差別意識やイデオロギーを作品の中から明るみに出す研究になった。』と言い、無意識にでも、『満たされない恥ずかしい欲求を、想像の中で満たそうとする人間が小説家になる。」とも言う。
作者自身さえも気付いていないとなるとそこまで批評してどうするの?とも思いたくなる。遠藤周作は自分の書いた文章が出題されていた入試問題を解いたら間違ったというようなことをエッセイに書いていたが、こういうことを読むと、きっとそういうこともあるのだと思えてくる。
それぞれの批評は確かにけっこう当たっていると思うが、これでは物語の構造を分析しているだけで、そこからどんな批評が考えられるかということがわからない。たしかに客観的な分析をしているにすぎないように思う。うちの会社でもよくあることだが、データだけあるが、そこから誰も何も対策を見出せないのと同じことなのかもしれない。
結局、解釈はそれぞれでやってくれということなのだろう。
それ以降の、マルクス主義批評、フェミニズム批評、ポストコロニアル批評というものは、前者の手法を使い、意識的、無意識的にかかわらず、物語が含んでいる社会的な問題点を浮き彫りにするというものであるので手法というよりも応用という感じがする。マルクス主義批評は経済格差を、フェミニズム批評はジェンダー、ポストコロニアル批評は人種間差別を取り扱う。この手法で行くと、これから先はLGBTQやIT格差、都市と地方の格差、そういったものもひとつの批評スタイルとして確立してゆくのかもしれない。
事実、障がい者が文学の中でどのように表現されているかということを批評するという分野も現れている。それを障害学批評という。そのほか、データ化された文章から単語ごとの出てくる頻度などから文学を批評しようという人文情報学批評などという手法、エコロジーという面からアプローチするエコクリティシズム批評という手法なども作られている。
大学の文学部というところは、こういうことを勉強しているのだということを初めて知った。
また、新たな批評の形として、「カルチュラル・スタディーズ(文化研究、文化理論)」という手法が生まれた。といっても端緒は1964年と半世紀以上前だが。対象が文学だけではなく、ポップアート、映画、CMといったジャンルも対象になること、先に取り上げたいろいろな手法を組み合わせて批評をおこなうことというのが特徴で、こういたアプローチの方法を、「プリコラージュアプローチ」という。
当初の批評というものは、古典文学と言われるものを対象に繰り広げられてきた。いわゆる、「ハイカルチャー(高級文化)」が対象だ、しかし、圧倒的多数の民衆はそういったものよりも、「マスカルチャー(低俗文化)」に親しむことがほとんどだ。おそらく、国民に対して何かを喚起させる恣意的なイデオロギーはこういったものを通して発信されるであろう。あるひとつのことばに別の意味を含ませて発信しながらある思想を植え付けようとする。ヒトラーの行動はその一例である。
だから、本当の社会を反映させて文学を読み解くには大衆がどう受け止めているか、受け止める可能性があるか、そういうことを分析、批評しなければならない。
これを、「コノテーション」と呼ぶそうだが、それを顕在化(ディノテーション)し国民に注意を喚起する、その役割が「カルチュラル・スタディーズ」であるというのだ。
これが一番しっくりくる考えであるように思えた。
しかし、結局は、『文学はそういった様々な解釈を言葉のずれとして楽しむものであるということになる。』ということで、そのためには、『小説の一文一文を丹念に読み進め、その曖昧性に注目し、自由に様々に連想をするのである。』となる。特に素人レベルでは。
いい評論とは、『評論が人の心を動かし共感を与えるためには、論理の展開がなるほどという妥当性をもっていなければならないのはもちろんだが、主張そのものの中で読者をハッとさせるような個性的な批評が含まれていることが不可欠である。』というのだが、いつも急いで読み飛ばしてばかりの僕はこれからも適当に思いつくままに書き続けるただの読書感想文ということになりそうだ・・。
結局、桃太郎の物語の批評についてのことはところどころ、ほんのわずか、申し訳程度に書かれているだけだった。別の批評例としてわざわざカミュの「異邦人」を取り上げているほどだ。多分、タイトルとしては、「この方が売れるで!」という編集者の意向に著者が逆らえなかったというようなところだろうが、冒頭に書いた通り、そんなことをしなくてもこの本は十分価値のある本だと思う。売れる本とその中身というのは決してリンクしないという、文学の奥深さを身をもって証明する本であった。
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