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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「NHK「100分de名著」ブックス ロジェ・カイヨワ 戦争論 文明という果てしない暴力」読了

2025年04月04日 | 2025読書
西谷修 「NHK「100分de名著」ブックス ロジェ・カイヨワ 戦争論 文明という果てしない暴力」読了

以前に読んだ本に、クラウゼヴィッツという人の「戦争論」という本が紹介されていた。あまりにも直接的なタイトルだったのでどんな本なのだろうと興味を持ったが同時に相当難解な本であるも書かれていた。それならばこの本の解説本はないかと図書館の蔵書を調べてみたら同じタイトルの本が数冊出てきた。どれも難しそうな本のようだったのだが、「100分de名著」から出ている「戦争論」の解説本があった。この「戦争論」の著者はクラウゼヴィッツではなく、ロジェ・カイヨワという人類学者であった。遊びの4分類というので有名な人だそうだ。
クラウゼヴィッツの「戦争論」は、戦争の実態を現実の政治や社会の文脈の中で理解しようとしたものだそう(「戦争は政治手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならならない。」とういう言葉で有名らしい。)だが、ロジェ・カイヨワの「戦争論」は、戦争そのものの研究というよりは、戦争が人間の心と精神を如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究したものであった。この、「恍惚」というのがキーワードのようである。

まず、歴史の中で戦争はどんな変遷を見せていたのかということが語られている。
身分差のない未開な時代の戦争(原始的戦争)では、部族という小集団の争いで狩猟に近いもので、待ち伏せや不意打ちといった戦い方であった。規模や目的は限定的で食料の横取りや女性の掠奪ためにやっていたようなものだった。
エジプトやメソポタミアなどの大文明が生まれ、その文明同士が衝突する時代になると、それは異民族を征服するための「帝国戦争」となり、その内容は共通の価値がなく、敵を破壊し屈服させる征服戦争であった。言ってみれば、地球とガミラスとの戦いのようなものだろう。
中世の封建社会になると、戦争を役割とする特権的な身分ができ、騎士階級の貴族同士が王家や領主のために戦う。甲冑を着た騎士がスポーツやゲームのように儀礼化した中で戦い、それは様式化していた。殺戮というよりも相手を屈服させることが目的であった。
この時代まではまだよかった。戦争は一部の人たちのもので、農地や家を荒らされるという被害はあったけれども、一般の人がそれに巻き込まれるということは少なかったからだ。
ウエストファリア体制による勢力均衡体制移行後、戦争は主権国家間の争い(国民戦争)となり、敵を降伏させるために、それぞれの国家が人的・物的資源を投入する総力戦になり、「国民戦争」の規模と残酷さはどんどん増してくる。
産業革命を経て工業生産力が高くなってくると武器は一部の特権階級のものではなくなり、万人が“平等”に武器を持つことで「国民」が兵士として戦うようになる。
社会が民主的になり、より人間的になったにもかかわらず、戦争そのものは非人間的になっていくというパラドックスが生まれるのだ。
そこに「恍惚」というキーワードが関わってくる。国同士が戦うためにはその基盤が強大で盤石でなければならない。主権国家の権限はナショナリズムの誕生を促し、それは死を媒介としておこなわれるようになった。
近代社会でひとりひとりバラバラになった個人は、「なぜ生きるのか」の指針を失い、現世的な欲望にかられて目先の利害にのめりがちであるが、そこに国家が意味を与えてくれる。「国家のために死ぬ」ことが生きていたことの意味になるのだ。父祖の地を愛するパトリオティズムが、国家を愛するナショナリズムに変化するということでもある。
「国家」は、国家のために死ぬ、あるいはそうみなされる人々の犠牲によって、その活力と凝集力を得る。その死は聖なるものと解釈され、戦争を罪悪視するのではなく神話化されてゆくのだが、その神話的思考の推進力となるのが「恍惚」なのである。国民はナショナリズムに酔わされてゆくのである。

カイヨワはまた、戦争は消費のためにおこなわれるのだともいう。人間社会を貫いているのは最終的には無目的な消費であって、生産は結局、蓄積された富をいっそう華々しく消費するためにしか役立っていない。合理主義的かつ生産主義的な近代の文明が、ものを作り蓄積し、社会を発展させているつもりで、結局は戦争という暴力的な消費の中に闇雲に崩れ落ちてゆくとも書いている。

となると、戦争というものは国家の維持と消費のためだけにあるということになるようであるが、そんなことのとのために人が命を落としているのかと思うとバカバカしくなる。
この本は1963年に出版されたものだそうなので、テロとの戦いやロシアとウクライナの戦争のようなものは想定されていないそうだ。
テロリストとの戦いなどはウエストファリア条約の内容からするとむしろ戦争とも言えない。ロシアとウクライナの戦争はある意味、カイヨワが生きていた時代の東西冷戦の延長線上にあるのかもしれないが、それよりも独裁者のエゴや猜疑心、強迫観念が理由のような気がしてならない。戦争の姿が変わってきたのか、姿を変えてでも戦争は続けられなければならないのか・・。いずれにしてもそれに付き合わされている国民はたまったものではない。ある英雄は、「かかっているものは、たかだか国家の存亡だ。個人の自由と権利に比べれば、たいした価値のあるものじゃない」といったけれども、そのとおり、恍惚と消費が国家の存在意義であり、それを実現するためにのみ戦争というものが存在するのであればそんなものが果たして必要なのかと思ってしまう。
それでも、安全を保障してくれるのも国家である。そのために国家の存在はやっぱり必要でそのために戦争も一緒についてくるというのではなんともやりきれなくなる。
戦争はただ人と人との殺し合いだけではない。貿易戦争というのも話題に上っている。世界規模の殺し合いというのはいまのところはないが貿易戦争は世界規模だ。それもこっちは消費を冷えさせる効果がある。
今、また、戦争は姿を変えようとしている・・。


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