イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「垢石釣游記」読了

2011年09月01日 | Weblog
佐藤垢石 「垢石釣游記」読了
佐藤垢石といってもこの名前を知っている人などはほとんどいないだろう。一応、調べてみると明治21年に生まれて報知新聞の記者を経て雑誌「つり人」の創刊に携わった人ということだ。昭和31年死去。僕は井伏鱒二の釣りの師匠であるということで名前だけは知っていた。
まあ、小西和人のような人なんだろう。いいねぇ、釣りが好きでそのまま職業になっちゃってるなんて。

この本は著者が亡くなってから再編集して出版されたものらしいが、出てくる話からするとかなり古い。多分昭和の始めくらいから戦争が終わるころくらいの話なのではないだろうか。
仕掛けの説明は、糸の太さは厘や分、錘は匁、魚の重さも貫や匁で書かれている。もちろん糸は化学繊維などではなく本テグスとか人造テグスなどというものばかりが出てくる。竿もグラス竿さえ出てこない。もちろん、リールという言葉は全然出てこない。

ちなみに、テグスというのは漢字で書くと“天蚕子”と書く。カイコなどの繭を作る蛾の幼虫の体内にある絹糸腺を酢酸に漬けて伸ばして作るらしい。また、人造テグスとういうは植物繊維のセルロースを酸で加工したもらしい。昭和20年くらいまでは使われていたそうだ。
それを考えるとほとんどが昭和10年代くらいに書かれたもののような感じだ。この年代というのは僕の父親が小学生のころということになる。あの人も魚釣りをするときはこんなものを使っていたのだろうか。しかし、昔、僕の祖父から聞いた話では、この“テグス”というのはものすごく高価なものだったらしく、魚を釣りに行っても大きな魚が近くにやってくると切られては困るのでみんな道具を引き上げてしまっていたそうだ。
僕の生まれたところの近くには鷹ノ巣という名前がついた地磯があって、祖父たちもよくここで釣りをしたそうだ。そこでの話ということでこんな話をしてくれた。60センチくらいのチヌがうようよしていたと・・・。
僕の父親の実家もものすごい貧乏だったらしいから多分そんな高価なものは使わずに麻や綿の糸を使っていたのだろう。
しかし、魚の数たるやいまの時代の比ではなかったのだろうと思うとなんともうらやましい。
できることならタイムマシンで80年くらい前まで遡って今の釣具を持ち込んで、もう、へとへとになるまで魚を釣り続けたいものだ。

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3 コメント

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Unknown (Shinji)
2011-09-02 03:34:46
お疲れ様です^^ 鷹ノ巣、懐かしいですねー メバルなんかもよく釣れ好きなポイントだったので僕もよく通いました。何年か前の台風で途中の橋が崩れてしまい行けなくなったのがホントに残念です(ノД`)シクシク
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Unknown (イレグイ号)
2011-09-02 23:12:26
Shinjiさん、
コメントありがとうございます。
そうだったのですか、たしか、磯に下りるルートが二つあって、ひとつは山越えで直接磯までたどり着けたのではないでしょうか。

僕は釣りをしたことはありませんが、小学生のころよく下まで降りて洞窟の中に入って遊んだものです。
一番奥に祠があって、来てはいけないところに来てしまったと後悔したことを覚えています。
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Unknown (shinji)
2011-09-03 01:17:27
イレグイ号さん>
なるほど他にルートがありましたか雑賀崎からの地磯続きのルートしか知りませんでした今度、日の高いうちに散歩を兼ねて偵察に行ってきたいと思います
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