イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

杉浦明平 「カワハギの肝」読了

2020年11月26日 | 2020読書
前回一緒に釣行した森に暮らすひまじんさんが、ご自分のブログでこの本を紹介していた。そのものずばりのタイトルに興味をもったので僕も借りてみた。
出版年は1976年だから僕が小学生の頃だ。
美食に関する持論や子供の頃遊びの途中で食した野山の食材、季節の食材などについて綴っている。「カワハギの肝」はその中の1編のタイトルである。

杉浦明平は、1913年愛知県の渥美半島の先端で生まれ、後年もそこで農作業をしながら活動をした歌人、作家である。
実家は父親が小地主兼雑貨商をやっていたということで、決して貧乏ではなかったはずだが、そういう時代だったのだろうか、周りの子供たちと一緒に、野山に生えている甘い味を求めて四季ウロウロしていたことを「野外食い歩きの記」という章で書いている。この本の約半分のボリュームで書かれているということは、著者の食に関する考え方の原点伝えたかったということだろう。
渥美半島というところはどんなところかは知らないが、当時のどの地方でもそんなにたくさんの種類の食材(食材というか、食べられる植物)があるのかというほどたくさん紹介されている。すべてが美味しいものではなかったようだが、甘いものが少ない時代には渋みや酸味のなかにわずかに残る甘みがいとおしかったようだ。
父も母も子供の頃のことをそんなにたくさん話すほうではなかったが同じようなものを食べるのが楽しみのひとつであったのだろうかと思う。

僕が子供の頃には貧乏とはいえ近所の駄菓子屋にいけばいくらでも甘いものが買えたし、そういう知識を伝えてくれる近所のガキ大将というのもいなかったからなのか、そういうものを探して食べてみたという記憶は皆無だ。学校の校庭に植えられていたサルビアの花を引っこ抜いて舐めたくらいの記憶しかない。そういえば去年、駅のフェンスに実っていたカラスウリを食べてみたがこれは毒ではないのだろうかと気になって舐めるくらいしかできなかった。
この本に出てくる植物名は多彩だ。グミ、スモモくらいは名前は知っているが、ツバナ、スダメってなんだろう・・。野生のサクランボやビワならなんとか見分けることができそうだ。椎の実、椋の実となるとよく似たものがたくさんありそうで知らずに食べたら危険がありそうだ。槇の木は僕の家にも生えているが食べられるらしい。そんなことを知っていると、野山を歩くのが楽しくなりそうだが、やはり、こういう知識というのはきちんと受け継がれたものでないと危ないのだ。
しかし、父が子供の頃暮らした地域というのは今の僕、そして子供の頃の僕の行動範囲とほぼ同じなのだが今の姿をみているとどうしてもそんなにたくさんの種類の食べられるものがあったとは思えない。母親の暮らしたところはけっこう山や林がたくさんあったのでこんなことをやっていたのだろうか。母からはイナゴが苦手で食べることができなかったというくらいしか聞いたことがないが・・・。
ただ、こういうものを読むと、物はなくても今よりもはるかに心豊かな時代ではなかったのかと思うのである。

それにつながるのか、「食いもの談義」という章では、“美食”というものにいささか批判的な意見を述べている。吉田健一、福田蘭堂、檀一雄の3人を引き合いに出しているのだが、
『自分で金を出して手に入れるよりもその季節に送って貰って喜ぶものだという気がしてならない。』という吉田健一に対して、『なんとか手に入れようとあくせくするものとっては、別世界の人間のように見えても仕方あるまい。』と自虐的に書いてはいるが、その奥には、自分のほうが本物の素材の良さというもののことをよほど知っているのだという自負のようなものが覗いている。
それに比べて福田蘭堂、檀一雄は自ら食材を探し求め、調理して味わうひとたちの代表として登場させている。。
吉田健一の美食ぶりをうらやましいと思いながらも、どちらかというと福田蘭堂、檀一雄のふたりに共感を持っていそうなところに著者の心が見て取れるような気がする。
自ら畑を耕して食材を確保しているところからもわかるが、鮮度やその食材の出どころのようなものをものすごく重視している。どこで取れたものかわからなものや鮮度が落ちたものはどんなに高級なものでも食べたくない。
ここには僕もいささか共感するところがある。まあ、高級レストランや高級料亭のようなところで食事をできるほどの財力がないというのがそもそもなのだが、自分で採ってきたもの、自分で獲ってきたもの、畑に植わっているのを見届けたもの。そういったものがどんな味付けでも一番美味しいと思うのだ。それは間違いのないことだと思うのだ。
勤務先の地下には色とりどりの食材や凝った調理の総菜がたくさん並んでいるが、これはバックヤードの汚さを知ってしまっているということもあるのだろうがまったく食指が動かない。値段だけがバカ高いとしか思えないのだ。

最後の「食卓歳時記」の章にもそういったことが随所に現れている。取り上げられている食材は決し美食を謳歌するものではない。うどん、ラッキョウ、子供のころ食べたチキンロースト、そんなものだ。しかし、そこには子供の頃の原体験や素材そのものの味を大切にするこころが現れているように思う。
そんな章のなかに、「カワハギの肝」という一篇も含まれているのだが、この文章の中で著者が賞賛しているのは、ギマという魚についてだ。ギマというのはカワハギの仲間であるらしいが腹びれのトゲが2本あったり、体色が銀色で体型もカワハギに比べると細長い魚だ。三河地方ではよく獲れる魚だそうだが紀伊半島がテリトリーの僕は釣ったことがない。カワハギ同様かなりおいしい魚だそうだ。そして、この地方ではカワハギのことは“モチギマ”と呼ばれ特別扱いされていると書かれている。
カワハギ(ここではギマも含めてのようだが、)の肝についてはこう書かれている。
『あらゆる肝のなかで一ばん味のいいのは、カワハギの肝だ。』
しかし、どうも著者はカワハギの肝を生で食べた経験はなかったようだ。ギマについても地元の地引網に掛かった小型のものを煮つけにして食べたり、モチギマについては名古屋辺りの料亭でおなじく煮たものをたべていたようだ。
いつの頃の時代を回顧して書いているのかは不明だが、鮮度の高い魚はなかなか手に入りにくい時代のことを書いたのだろうか。しかし、カワハギの洗いが絶品だと書いているところをみると、かなり鮮度の高い魚も手の入っていたのだろう。肝を生で食べるということが一般ではなかったのだろうか。
もし、著者がカワハギの薄造りを肝和えで食べていたとしたら、どんな文章が書かれていただろうか。こういうひとにはぜひ生のカワハギの肝を食べて文章を書いてほしかった。
あの味にいったいどんな感想を寄せたであろうか・・。

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2 コメント

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Unknown (森に暮らすひまじん)
2020-11-27 09:03:09
 この本は大津の自宅の本棚に置いており、読み返すこと出来ませんでした。ただ、この本のタイトルだけは覚えており、多分、当時印象に残る1冊だったのでしょう。間もなく大津に帰るので、読み返してみたいと思います。
 山小屋から見える海には釣り船がたくさん浮かんでいます。思わず、先日の大きなカワハギを思い出します。
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Unknown (イレグイ号)
2020-11-27 19:29:59
森に暮らすひまじんさん、
いつもコメント、ありがとうございます。

おもしろい本を紹介していただきありがとうございました。
身の回りにあるものを美味しくいただく、というか、身の回りには美味しいもで溢れているのだということを実感させられました。
“美食”というものからは遠くかけはなれているのかもしれませんが、ぼくはこっちのほうを支持したいと思いました。

今日はイカを釣りに行ってきました。穏やかな天気で、加太に行ってもよかったかと思ったりもしてしまいました・・。
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