イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「われは歌えどもやぶれかぶれ」読了

2020年05月04日 | 2020読書
椎名誠 「われは歌えどもやぶれかぶれ」読了

椎名誠の本で比較的出版年度が新しい本を見つけた。この作家は大量に本を出版しているのでどれが新しいのかがよくわからないのだ。
この本については2018年の出版で、「サンデー毎日」で連載していたものを単行本にしたものだ。

著者も古希を超え、少しばかり老いを感じ始めた。連載は日々の生活と自分の老いをうまくからめながら独特の文体で書き進められている。2016年の時点で72歳。
活動的ではなくなったと書いてはいるけれども、半径10キロでしか生活をすることができない僕からするととんでもなく行動的だと思うのだ。
この年でも日本中に講演や遊びに飛び回り、長距離をピックアップトラックで運転して山の中まで行く。しんどいと言いながら月に1回は「雑魚釣り隊」の活動として泊まり込みで宴会セットの釣行にも出る。これで十分以上じゃないか。
僕が72歳になったころにはそんな体力も財力も両方とも無くなってしまっているだろう。生きていられるのかも怪しいのだ。
連休の出勤の合間に読むには軽くてちょうどよいのだ。

著者もすでに孫がいる年齢だ。ひとつの夢として、親子三代で釣りをするというものを実現する。
僕も子供ができたとき同じようなことを思った。父親と子供三人でランニングシャツを着て、麦わら帽子をかぶり、防波堤に並んで釣りをしている後姿を写真に撮って年賀状にしたいとずっと考えていた。
僕の父は孫が幼稚園の頃に他界し、もともと、仕事もできないのに釣りにばかり行っている自分をいくらか恥じていたのか、「釣りなんてやらなくていい。」としか言わなかった。子供は子供でそういうことが嫌いでせっかく買ってきた釣竿にも何の興味も示さなかった。
だからそういう写真を撮ることがなかったわけだけれども、僕は父親が多分思っていた、「仕事もできないのに釣りにばかり行っている自分をいくらか恥じている。」というところだけは引き継いでしまったと思うのである。息子は釣りをしないのでそれを引き継ぐことはないだろう。
それはそれでよかったのかもしれない・・。

タイトルの、「われは歌えどもやぶれかぶれ」というのは、室生犀星の著作のタイトルだそうだ。(正確なタイトルは「われはうたえどもやぶれかぶれ」だった。)
著者が高校生の頃、授業中に隠れて読んだ文藝春秋に掲載されていたエッセイのタイトルらしい。当時犀星は72歳。内容は、歳を取っておしっこが出にくいというような内容だ。
高校生の著者には、その“おしっこが出にくい”ということ理解できず、一体何を書いているのか皆目わからなかったそうだが、この年(2016年)同じ72歳になり、犀星の気持ちがよくわかるようになったというのでタイトルを借用した。
ということらしい。
青空文庫に著作アップされていたので僕も読んでみたがおしっこが出にくいというのはほんのさわりのところだけで、大部分は犀星の闘病記のようなものだった。
肺の病で入院をするのだが、犀星はその入院に際してこんなことを思う。「私は私自身を放棄する立場を感じたのは物臭さからであった。此処ではにわかにどうなったっていいや、此処は患者という名の意志のない奴の寝ころがっている一つの断崖なのだ。」
患者同士の意地の張り合いや看護師への八つ当たり、うら淋しさなど、自分の我儘な部分を赤裸々に描いているわけだけれども、ああ、僕も入院すると老いてからはもちろん今からでもこんな患者になってしまうのではないかと自分が恐ろしくなるのである。

コメント
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