宇江敏勝 「牛鬼の滝 (民俗伝奇小説集)」読了
久しぶりに宇江敏勝の本を手に取ってみた。基本は毎回同じで、終戦直後くらいまでの時代を紀伊山地の山中で生きた人々の物語だ。木を切る人、炭を焼く人、開拓のために入山したひと・・。
すべては架空の話ではあるのだろうけれども、作家自身が取材や聞き取りから得た情報を元にした限りなく事実に近い物語のように見える。物語にリアリティがありすぎる。
すべての人はその山に畏敬の念を抱き、生きるために深く切り込んでいくけれどもある一定の距離を取りながら生きている。それが山にひそむ得体のしれないものへの敬意でありなおかつ山の資源を未来へ残してゆくための方策でもあったように思う。
まだ生きているかもしれない狼、本のタイトルにもなっている牛鬼、また、杣人たちのしきたりにもそういったものを感じる。
この本の物語の舞台になっている時代は主に第二次世界大戦がはじまる直前から終わるころまでだが、この時代でも里に下りるとそれなりに豊かな生活ができたようだ。それでも物語の登場人物たちはあえて山に残って生きる道を選ぶ。それは生きることに不器用であるというところもあるのかもしれないが、なにか人を引きつけるものが山には(多分、海にも)あるのだろうと思う。
さて、僕も引きつけられたい類の人間ではあるのだが、この作家の本を読むたびに、僕はそれにふさわしく、またそれに耐えていける人間なのだろうかといつも思う。
単にあこがれているだけなのか、絶望することを忘れるほど生きることに切迫する生活は僕には無理だろうか。現代ならばある程度快適な生活を送りながらそんな山の生き方(海の生き方)もできるのではないだろうかなどと思うけれども、作家が書いている通り、それはきっと、『自然と人間の、肌を接するような濃密な関係』ではなくなってしまうのかもしれない。
朝、少し早い目に家を出て駅のベンチに腰かけて本を読んでいると、どこからともなくたくさんの種類の鳥の声が聞こえてくる。
外出自粛の中、人が少なくなって野鳥ものびのびしているのだろうか。鳥の鳴き声にはこんなに種類があったのかと驚いてしまう。
僕にはこの程度の濃密さの自然との交わりが限界なのかもしれない。
久しぶりに宇江敏勝の本を手に取ってみた。基本は毎回同じで、終戦直後くらいまでの時代を紀伊山地の山中で生きた人々の物語だ。木を切る人、炭を焼く人、開拓のために入山したひと・・。
すべては架空の話ではあるのだろうけれども、作家自身が取材や聞き取りから得た情報を元にした限りなく事実に近い物語のように見える。物語にリアリティがありすぎる。
すべての人はその山に畏敬の念を抱き、生きるために深く切り込んでいくけれどもある一定の距離を取りながら生きている。それが山にひそむ得体のしれないものへの敬意でありなおかつ山の資源を未来へ残してゆくための方策でもあったように思う。
まだ生きているかもしれない狼、本のタイトルにもなっている牛鬼、また、杣人たちのしきたりにもそういったものを感じる。
この本の物語の舞台になっている時代は主に第二次世界大戦がはじまる直前から終わるころまでだが、この時代でも里に下りるとそれなりに豊かな生活ができたようだ。それでも物語の登場人物たちはあえて山に残って生きる道を選ぶ。それは生きることに不器用であるというところもあるのかもしれないが、なにか人を引きつけるものが山には(多分、海にも)あるのだろうと思う。
さて、僕も引きつけられたい類の人間ではあるのだが、この作家の本を読むたびに、僕はそれにふさわしく、またそれに耐えていける人間なのだろうかといつも思う。
単にあこがれているだけなのか、絶望することを忘れるほど生きることに切迫する生活は僕には無理だろうか。現代ならばある程度快適な生活を送りながらそんな山の生き方(海の生き方)もできるのではないだろうかなどと思うけれども、作家が書いている通り、それはきっと、『自然と人間の、肌を接するような濃密な関係』ではなくなってしまうのかもしれない。
朝、少し早い目に家を出て駅のベンチに腰かけて本を読んでいると、どこからともなくたくさんの種類の鳥の声が聞こえてくる。
外出自粛の中、人が少なくなって野鳥ものびのびしているのだろうか。鳥の鳴き声にはこんなに種類があったのかと驚いてしまう。
僕にはこの程度の濃密さの自然との交わりが限界なのかもしれない。