イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「今日もごちそうさまでした」読了

2016年05月08日 | 2016読書
角田光代 「今日もごちそうさまでした」読了

角田光代と言ってもこの人の本など読んだことがなかった。苗字を“かどた”ではなく“かくた”と読むのだというのを初めて知ったくらいだ。八日目の蝉と紙の月をドラマと映画で見たくらいで、多分僕が読むジャンルの作家ではないのは確かだが、食に関する本なので手に取ってみた。
著者は若いころかなりの好き嫌いがあって、30歳を前にして“食の革命”を起こし食べたことがなかったものを料理して食べるようになったという。そんな食材を春夏秋冬に章を分けて紹介している。

春の章、コシアブラが出てくる。ごま油で炒めて醤油と酒を回しかけて七味をふって出来上がりというレシピが出ている・・・。もう少し早くこの本を読んでおくべきだった。(しかし、こんな料理を作るためにはどれだけのコシアブラが必要になるのだろう?)
季節の食材。僕にも小さなころには大嫌いだったが今では好物になったものがいくつかある。その代表はナスだ。食べ物が黒いということと妙に柔らかすぎるあの食感はどうしても納得がいかなくて大嫌いだったが今では普通に食べている。むしろ夏には食べなければならない食材になった。そういえば、牡蠣もそんな食べ物だ。そのほかにももっと早く食べておけばよかったと思う食材は山ほどある。歳をとらなければわからない味というものは必ずあるのだと今になってわかるのだが、そうは言っても残りの人生のほうが少ないのは間違いのないことで、一体どうしてくれるのだ!と誰かわからない相手にかみつきたくなるのだ。

ただ、まだそんな食材に出会えているのはひょっとして幸せなことではないかともおも思える。自分でとってくる食材はどんなに金持ちでもそれは自分で動こうとする意志がなければ手に入らないもの。僕の友人にレクサスを乗り回しているやつがいるが、せっかく持って行ってやったサバは三枚におろすことができず、苦労して掘り出した持って行ってやった自然薯は煮て食ったらしい(自分で食べたいと言っておいてこのていたらくだ。)。普段どんな食生活をしているのかは知らないが、それに比べれば僕は今、多彩な食材を季節を感じながら食べているはずだ。貧乏人の歯ぎしりにも受け止められるが、それはそれでしあわせなことではないのかと思いたい。


著者は肉女らしい。とにかく肉が大好物らしい。僕より3歳年下だけなのだが、世間で活躍する人はスタミナを求め、肉を消化してエネルギーに変換できる人が世間で活躍できるとしたら、まったく食が細くなってしまった僕は失格だ。肉は好きだがお弁当に入っている牛肉の炒め物を食べるとそれから3時間は胃の中に残っているのがわかってしまう。やはり韜晦して生きるしかないというのが食の面でも納得してしまう1冊である。
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「親鸞のこころ」読了

2016年05月08日 | 2016読書
梅原猛 「親鸞のこころ」読了

この本は前半が親鸞の本当の教えとはどんなものであったのか、後半は浄土経がたくさんの有名無名の僧侶たちにどのように解釈されて親鸞にたどりついたか、そしてそこから再びどのように広がったかという構成になっている。

浄土真宗といえば、悪人正機説に代表されるように、どんなひとでも阿弥陀如来にすがれば極楽往生に行けるというのが基本的な教えだと思われている。これは親鸞の弟子の唯円が書いた「歎異抄」が真宗の教えの中心になってしまっているからで、親鸞自身の重要な教えにはもうひとつ、還相回向というものがあった。極楽往生したひとはもう一度この世に生まれ変わって衆上を助けなければならないのだというものだ。
だれでも極楽往生できる(これを往相回向という。)かわりにうまれ変わって誰かを救う義務があるというのだ。

仏教の基本である輪廻を繰り返して菩薩の境地に近づいてゆくというものがちゃんと取り入れられていて、救ってもらうだけなんて、人生、そんなに甘くはないんだぞというところも押さえられているということだろうか。それともいずれはこの穢れた世界に戻らなければならいのだから、この穢れに慣れておくためにしっかり今を生きなさいとでも教えてくれているのだろうか・・。

今、世の中の役にたっているひとたち、社会のための貢献した人たちは僕よりももっと輪廻の回数が多いだけで、僕も輪廻を繰り返せば世の中の役に立てるひとになれるかもしれないと思えば、ある意味、今は楽をしていていいのだよと言ってくれているようでこれはこれでありがたい。
結局は阿弥陀様のお導きに従うまでというところだ。


日本の浄土教の最初は源信が著した「往生要集」である。死ぬときの心構えが大切だという。
それを受けた法然が戒律を守り道徳的な考えで生きてゆくことが往生するための唯一の方法だとし、そうは言っても煩悩や性欲は抑えきれないし、そんな気持ちで修行は続けられない。それならやりたい放題やってガス抜きしたほうがいいんじゃないか。というのが極論だが親鸞の考えのようだ。
どうやったらこの欲望を捨てられるかというので法隆寺の夢殿にこもっていると、救世観音が現れて、そんなにしたかったら私が女性に化けてさせてあげようと言ってくれたので何もかも吹っ切れたというのはかなり暴論というか、自分の都合のいいように考えているだけだのように思えるのだが、釈迦の教えである、「煩悩なんて捨てられるわけがないのだからそれを受け入れて生きてゆきなさい。」という教えにも通じたりしているのかもしれない。
ある意味、革命的な考えだったのではないだろうか。
日本で一番信者が多い仏教は浄土真宗だそうだが、親鸞が師匠の法然より人気があるのも、こんなより人間らしい考え方をもっていたからだと著者は語っている。しかし、その奥には再び蘇って人々のために生きるのだという厳しい教えを潜ませていた親鸞の本当の思いというのは、自分の思いのままに生きればいい、しかし絶対にやらねばならないこともあるのだという現在の行き過ぎたようにも思える自由競争社会への警鐘にも思えるのだ。

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水軒沖釣行

2016年05月08日 | 2016釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 6:45満潮
釣果:サバ 3匹 マルアジ 23匹

そろそろチョクリでアジとサバが釣れているという情報が舞い込んできた。今日の休みも天気がいい。迷わずチョクリに出撃だ。
午前4時半出港。まだまだシーズンの走りなのでできるだけ沖に行こうと思い、双子沖50メートルまで出張って釣りを開始。

仕掛けを降ろしてすぐに魚探に反応が出ている。なかなかいい感じだが、竿にアタリはない。



アタリがないまま40分くらいが過ぎてしまった。やっぱり早すぎたかと思っているとやっとアタリが出た。大きなサバだ。元気に竿を曲げてくれないのはあまり活性がよくないからだろうか。
しかし大きい。スーパーで売っているノルウェー産冷凍サバ1匹780円くらいの大きさはありそうだ。
次にマルアジが1匹。
船は南西方向に流され、水深53メートルくらいまで来てしまったので最初の位置に戻ると再びアタリが出た。今度はマルアジが6匹。船首の置き竿にもアタリが出ている。
これで一気に数を稼げた。
アタリは連発ではないが時々出て、手持ちにも置き竿にも複数匹がかかってくるところを考えると、濃い小さい群れがたまに通ってくるという感じか・・。

プロみたいなチョクリ船もあまりアタリがないのか仕掛けを下さずにずっと移動したままだ。こちらの様子を窺っている気配を見るとそうとう情報不足のようだ。



その後も少しだけアタリを拾って午前7時半ごろ終了。帰途、水深38メートルラインにもチョクリ船が出ていて、その付近で魚探の反応があったので、それほど沖まで行かなくても大丈夫だったかもしれない。

久々にそこそこの獲物を得たのでこれも久々に叔父さんの家に差し入れだ。チョクリも夏の始まりを告げるものだが畑のほうもだんだん夏の作物が実り始めている。



確実に夏が近づいているのだ。


家に帰って、かねてから行ってみたいと思っていたマテガイ獲りに行ってきた。ドレッシングのボトルに七分くらいの塩をもっていったが、一時間足らずで使い切ってしまった。
穴に塩をふりかけるとピュッと飛び出してくるのだが、本当に飛び出してくるのだから面白い。
場所は浜の宮海岸。ゴールデンウイークの最終日、かなりの人がマテガイを獲っているが、おっさんひとりで黙々と砂をほじくっているのは僕だけなのでかなり浮いている。
こんど獲りに行くときは絶対に平日にしよう。


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