イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「親鸞のこころ」読了

2016年05月08日 | 2016読書
梅原猛 「親鸞のこころ」読了

この本は前半が親鸞の本当の教えとはどんなものであったのか、後半は浄土経がたくさんの有名無名の僧侶たちにどのように解釈されて親鸞にたどりついたか、そしてそこから再びどのように広がったかという構成になっている。

浄土真宗といえば、悪人正機説に代表されるように、どんなひとでも阿弥陀如来にすがれば極楽往生に行けるというのが基本的な教えだと思われている。これは親鸞の弟子の唯円が書いた「歎異抄」が真宗の教えの中心になってしまっているからで、親鸞自身の重要な教えにはもうひとつ、還相回向というものがあった。極楽往生したひとはもう一度この世に生まれ変わって衆上を助けなければならないのだというものだ。
だれでも極楽往生できる(これを往相回向という。)かわりにうまれ変わって誰かを救う義務があるというのだ。

仏教の基本である輪廻を繰り返して菩薩の境地に近づいてゆくというものがちゃんと取り入れられていて、救ってもらうだけなんて、人生、そんなに甘くはないんだぞというところも押さえられているということだろうか。それともいずれはこの穢れた世界に戻らなければならいのだから、この穢れに慣れておくためにしっかり今を生きなさいとでも教えてくれているのだろうか・・。

今、世の中の役にたっているひとたち、社会のための貢献した人たちは僕よりももっと輪廻の回数が多いだけで、僕も輪廻を繰り返せば世の中の役に立てるひとになれるかもしれないと思えば、ある意味、今は楽をしていていいのだよと言ってくれているようでこれはこれでありがたい。
結局は阿弥陀様のお導きに従うまでというところだ。


日本の浄土教の最初は源信が著した「往生要集」である。死ぬときの心構えが大切だという。
それを受けた法然が戒律を守り道徳的な考えで生きてゆくことが往生するための唯一の方法だとし、そうは言っても煩悩や性欲は抑えきれないし、そんな気持ちで修行は続けられない。それならやりたい放題やってガス抜きしたほうがいいんじゃないか。というのが極論だが親鸞の考えのようだ。
どうやったらこの欲望を捨てられるかというので法隆寺の夢殿にこもっていると、救世観音が現れて、そんなにしたかったら私が女性に化けてさせてあげようと言ってくれたので何もかも吹っ切れたというのはかなり暴論というか、自分の都合のいいように考えているだけだのように思えるのだが、釈迦の教えである、「煩悩なんて捨てられるわけがないのだからそれを受け入れて生きてゆきなさい。」という教えにも通じたりしているのかもしれない。
ある意味、革命的な考えだったのではないだろうか。
日本で一番信者が多い仏教は浄土真宗だそうだが、親鸞が師匠の法然より人気があるのも、こんなより人間らしい考え方をもっていたからだと著者は語っている。しかし、その奥には再び蘇って人々のために生きるのだという厳しい教えを潜ませていた親鸞の本当の思いというのは、自分の思いのままに生きればいい、しかし絶対にやらねばならないこともあるのだという現在の行き過ぎたようにも思える自由競争社会への警鐘にも思えるのだ。

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