イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
良い生活
「実際キリストはこの世でただ急いで苦しみを受け、そして死なねばならなかったばかりでなく、なおその前に生活をされて、サドカイ人の現世的信仰やパリサイ人の教会主義では行えないような良い生活ができることを、またどうすればそれができるかを教えなければならなかった。この点を、すなわち、このような生活を、われわれはキリストにならうべきであり、また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」
(ヒルティ、「眠られぬ夜のために 第一部」(草間・大和訳、岩波文庫)、2月2日の項より。)
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ある人にメールをしたためようと思い、すると「眠られぬ・1」の中にあることばを引用したくなって、読み始める。
本末転倒になってしまい、もっぱら読みふけってしまった。
読みふけったさ中、書き留めたく思ったのが冒頭の文章。
(ちなみに、「引用したく思」った文章も、無事見つかった。)
「良い生活」とある。
ここで問われるのは、もっぱら「何が『良い』か」という価値基準だ。
ヒルティが消去法によってまず否定しているのが、「サドカイ人の現世的信仰」、それと「パリサイ人の教会主義」である。
話が飛ぶようだが、やはりほんじつ再読していた「余は如何にしてキリスト教徒になりし乎」の中に、こうあった。
「異教国以外の『国々』に(註:!)かくも普通に行われている金銭万能主義(マモニズム)や…の恐ろしい祟り(たたり)の多く……」(岩波文庫版ではp.14)
マモニズム、これを今の私はもっぱら「マテリアルワールド」と呼称しているが、指さすものは同じだ。
「良い生活」ということに関して、これもやはり消去法にて否定したい。
ヒルティは続いて書いている。
「どうすればそれができるかを教えなければならなかった。」
まさしくその通りと思う。
福音書でのイエスの行いやおことばを、「もっぱら文脈を意識して捉えることによって」、「これら」に倣う。
処方箋や方程式の類で即物的に得ることができる類のものでは、凡そない。
さらに続けて筆を進める。
「また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」
そう、「苦難と試練」の類は、寧ろあって当然だ。
そして、いかにして「それに打ち勝」つか、ここが焦点だろうと思う。
「打ち勝」った結果それ自体は、どうでもよい。
(やれやれ、と安堵の息をつくことは佳きこととして、「安堵の息」をつく「行為自体」には実に何の意味もない、と書けば「とおり」がよかろうか。)
「彼に従って」、即ち、ただひとりで堪え忍んでいるわけではなく、イエス、神であられるこの方と共に耐え続けている。
そうこうしていると、気付くと「ほんとうに良い生活」、真の満足を得ることができるだろう(マルコ4:26-29参照、特に28節)。
私はやっと、この間口に立つことの叶ったものにすぎない。
「まだ間口」にすぎないので、まあ「いろいろ」とあるのだが、そういうものと割り切っている。
「よい生活」のおとづれを目指して、今日も歩む。
[註:!の箇所]
内村鑑三が「キリスト教国でのマモニズム」を指摘しているこの書物は、「序」が1895年に記されたものだ。ということは、ここでいう「キリスト教国」は、おのずとアメリカになる。
他方、ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を世に生み出したのは1920年、実に四半世紀後のことである。
これは内村鑑三が優れていたとか日本人に先見の明があった、ということでは全くなく、単に「外側から見るとよく見える」という、至極当たり前のことにすぎない。
(内村鑑三という一日本人にとって、アメリカは「外側」だ。)
それほどに己のことは分からないものであり、それを思うにつけ、「キリスト教圏の住人」たるウェーバーがよくぞ気付き体系的に書き表したものだ、と更に尊敬の念を深くする。
なお、私はアメリカからもかなり多くの恩恵を受けているという考えの持ち主であることをお断りしておく。
(ヒルティ、「眠られぬ夜のために 第一部」(草間・大和訳、岩波文庫)、2月2日の項より。)
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ある人にメールをしたためようと思い、すると「眠られぬ・1」の中にあることばを引用したくなって、読み始める。
本末転倒になってしまい、もっぱら読みふけってしまった。
読みふけったさ中、書き留めたく思ったのが冒頭の文章。
(ちなみに、「引用したく思」った文章も、無事見つかった。)
「良い生活」とある。
ここで問われるのは、もっぱら「何が『良い』か」という価値基準だ。
ヒルティが消去法によってまず否定しているのが、「サドカイ人の現世的信仰」、それと「パリサイ人の教会主義」である。
話が飛ぶようだが、やはりほんじつ再読していた「余は如何にしてキリスト教徒になりし乎」の中に、こうあった。
「異教国以外の『国々』に(註:!)かくも普通に行われている金銭万能主義(マモニズム)や…の恐ろしい祟り(たたり)の多く……」(岩波文庫版ではp.14)
マモニズム、これを今の私はもっぱら「マテリアルワールド」と呼称しているが、指さすものは同じだ。
「良い生活」ということに関して、これもやはり消去法にて否定したい。
ヒルティは続いて書いている。
「どうすればそれができるかを教えなければならなかった。」
まさしくその通りと思う。
福音書でのイエスの行いやおことばを、「もっぱら文脈を意識して捉えることによって」、「これら」に倣う。
処方箋や方程式の類で即物的に得ることができる類のものでは、凡そない。
さらに続けて筆を進める。
「また同時に、われわれの負うべき苦難と試練の分け前を忍耐をもって受け取り、彼に従ってそれに打ち勝たねばならない。」
そう、「苦難と試練」の類は、寧ろあって当然だ。
そして、いかにして「それに打ち勝」つか、ここが焦点だろうと思う。
「打ち勝」った結果それ自体は、どうでもよい。
(やれやれ、と安堵の息をつくことは佳きこととして、「安堵の息」をつく「行為自体」には実に何の意味もない、と書けば「とおり」がよかろうか。)
「彼に従って」、即ち、ただひとりで堪え忍んでいるわけではなく、イエス、神であられるこの方と共に耐え続けている。
そうこうしていると、気付くと「ほんとうに良い生活」、真の満足を得ることができるだろう(マルコ4:26-29参照、特に28節)。
私はやっと、この間口に立つことの叶ったものにすぎない。
「まだ間口」にすぎないので、まあ「いろいろ」とあるのだが、そういうものと割り切っている。
「よい生活」のおとづれを目指して、今日も歩む。
[註:!の箇所]
内村鑑三が「キリスト教国でのマモニズム」を指摘しているこの書物は、「序」が1895年に記されたものだ。ということは、ここでいう「キリスト教国」は、おのずとアメリカになる。
他方、ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を世に生み出したのは1920年、実に四半世紀後のことである。
これは内村鑑三が優れていたとか日本人に先見の明があった、ということでは全くなく、単に「外側から見るとよく見える」という、至極当たり前のことにすぎない。
(内村鑑三という一日本人にとって、アメリカは「外側」だ。)
それほどに己のことは分からないものであり、それを思うにつけ、「キリスト教圏の住人」たるウェーバーがよくぞ気付き体系的に書き表したものだ、と更に尊敬の念を深くする。
なお、私はアメリカからもかなり多くの恩恵を受けているという考えの持ち主であることをお断りしておく。
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