耳しいの耳

 「 というのは、持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
  わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。」(マタイ13:12-13)

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 ほんじつは「貯金を切り崩して書こうか」、そう思って小ノートを開きはじめる。
 たまたま「順番」が、冒頭の聖書箇所だった。

 当時の私は、このノートに「注釈」を書き殴っている。

 「『群衆』が求めているものは、いやしやパンの奇跡の様なマテリアルなもの(サタンの側のもの)であって「真理」(いのちのパン)ではない。
 そしてこの『群衆』がイエスに向かって「十字架につけろ!」と叫んだ
          ex ) マタイ27:15-25」

 そのままを、書き写してみた
(それにしても、書き殴りとはこのことかと思う)。
 一見、冒頭の聖句と何のつながりもない書き殴り…。
 さしあたり思うことは、なぜゆえにイエスが「彼らにたとえで話す」のか、ということだ。
 実に、冒頭の聖句通りだと思う。
 聞く耳がない。
 イエスは言う。「耳のある者は聞きなさい」と(例えばマタイ11:15)。
 検索してみて、これは驚いたのだが、この「耳のあるものは……」は、ヨハネ黙示録2-3章に、突出して多い(7箇所)。

 聞く耳がないがゆえに、「『十字架につけろ。』ろ叫び続け」(マタイ27:23)、挙げ句の果てに「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」とまで高揚する(同25節)。

 マタイ27:25。
 この取り扱いはきわめて注意が必要なのであるが、「ユダヤ人に聞く耳がなかった」などとは、私は全く思っていない。ユダヤ人がこの箇所にきわめてセンシティブなことを重々承知の上で、敢えて取り上げた。
 「『群衆全体』に聞く耳がなかった」と思うからだ。

 そして、こうとも思う。
 実に私自身も、全く聞く耳がなく、高揚を抑えようともせず、そうしてイエスを(神を)十字架につけてしまったものだ、と。
 このイエスは、黙して十字架についた。
 最高刑としてのそれだ。
 ここまで身をやつしてでも、「群衆」、彼らのうちの一人でも多くを「いのち」に与らせたっかったのだろう。
 実にその意味で、「神は愛」だと、今は思う(1ヨハネ4:16)。ヨハネ伝3:16も、この捉え方で、私は読んでいる。以下に記そう。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 預言者は言った。
 「心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
 そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。」(イザヤ35:4-5)

 まさしく、「そのとき、……耳しいた者の耳はあけられる」。
 すると「その耳」は聞こえ「たとえ」を身で知り、そして持ち、さらにますます豊かになることだろう。

 まさか十字架について書くことになり、自分なりに話のつじつままで合わせた(冒頭の聖句で結んだ)とは、これは全くのハプニングだ。
(全く違うこと、それを「書かせてくれなかった」ようだ。)
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