唯一の味方を失ったときのイエス

 「それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
  イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
 ……。
 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 ……。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」(マタイ14:12-23)

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 さくじつの続き。
 バステスマのヨハネという「唯一の味方」を失ったイエス。
 よほど悲しかったのだと、今の私は思っている。
 肉となられた神、イエス。
 やはり肉なのだから、痛いと思うし、悲しみを感じる(だからこその福音書だと思う)。

 「自分だけで寂しい所に行」こうが、「群衆がそれと聞いて、……追っ」ってくる。
 ここで、彼らを癒し五千人の給食という哀れみのわざまでなさるイエス、今の私はもっぱらここに注目している。
 で、「群衆」は満腹すればいい存在なので(過日書いた。リンク省略)、「群衆を帰した」。
 あの「群衆」が、実にあっさり引き下がること、これは前々から不思議だった。
 が、ヨハネ伝での「五千人の給食記事」と照らし合わせて、ああそういうことか、と、そこは思い至った。

 そして、やっと一人にならせてもらって、「祈る」。
 どれほど祈ったか。
 「夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた」とあるように、相当長い祈りだったはずだ。
 何について祈ったか、ここは解釈を許してくれない。
 ただ、バステスマのヨハネが、「ああいうこと」になると聞くのだから、まあ、よほど一人きりで祈りたかったのだろう、とは思う。
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