色恋沙汰と愛

 「ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
 ヤコブはラケルを愛していた。」(創29:16-18)

 「女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」(1コリント11:6)

 「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。……」(創1:27-28)

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 レアとラケルのすがたかたちを見比べて、その上で「ラケルを愛していた」…。
 要するに、「色恋沙汰」の類以上のものではない。
 なんだその「ラケルを愛していた」という「表現」は…、けさかた聖書を開いて、そう思った。
 単に「ラケルが『好き』だった」というだけのこと、それは、「ヤコブ物語」の通底に流れている(そのこと自体に善悪はないとも思う)。
 「愛」、ねぇ……。
 繰り言だが、単なる「色恋沙汰」だ。

 ところで、映画「パッション」。
 先月9月の「総決算」時に、このDVDは処分したのだが、1つ象徴的なシーンがあるのを思い起こす。
 女性はみな「かぶり物」をしているわけだが、イエスの痛々しさにたまらなくなった女性(マグダラのマリヤだったか?)が、自身の「かぶり物」を外して、その布で血まみれのイエスの体を拭くシーン。
 この「かぶり物を外す」瞬間、彼女の長い髪がはらりと開けて美しいうなじ、その肌色が顕わになる…
 そう、「あの凄惨な映画」の中に「色気なんてもの」を見いだしてしまう。
 もしこのシーンがなかったならば、「あの映画」で「女性はみなかぶり物をしていた」こと自体を気付かずに見終わったろう。それほど「突出していた」シーンだ。
(あれは意図あってのことなのだろうか。少し前、あの映画の監督さんの新聞報道に接したが。)
 大河ドラマの類でも、「和式かぶり物」をしている女性は多く登場する。
 あまりによく見かけるので、当時描かれた絵にはそのような女性がたくさん描かれていた、つまり実際のところそうだったのだろうと、これはまあ、憶測の域を出ない。

 実に人は、性欲を有している。
 「生めよ。ふえよ」とあるとおりに。
 神からのプレゼントとさえ、言っていいほどだ。
 「この性欲」故に、人類はここまで続いているのであって、「私」もこうして「書く行為をする」のだから、やはりプレゼントだ。
 ところが、やはりどこまでいっても「善悪の木の実」(創3:6)のゆえ、裸を恥ずかしいと思う存在になるし、異性を見ればもっぱら顔立ちで「愛する」。

 かくして新約の頃には「かぶり物」という知恵?が登場する。
 色香の類を隠すためのものと思っている。
 そう、公の場では色香を隠すのが、ほんとうではあるまいか。
(それは男性にしても同様だろう)。
 そして、神からのプレゼント「生めよ。ふえよ」が、「援助交際掲示板」に堕する。
 痴漢事件報道も、後を絶たない。
 男性である私から言うと、「痴漢してくれ」と哀願する服装や化粧、そうとまで思っている。
(わざと誇張して書いている。)
 男性の知人は、電車に乗るときは両手で頭上の鉄パイプをわしづかみするのだそうだ。もっぱら「あらぬ疑いを掛けられないため」と伺い、それは驚いた。

 ほんじつは、タイトルに挙げた「愛」の方は、書けずじまいだ。
 私も、「ほんとうの愛」が分からないから。
 「分からないことが分かる」こと、それと、「色恋沙汰」とは全く異なる、この2点の確認をすれば、まあよかろう。
(「将来書くであろう記事」への布石でもある。)
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