イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
戦後の混乱期
「さらにまた、次のような経験も一般によくなされることである。
苦しみがひとたび頂点を越えてしまうと、それは一挙に消え去るのではなく、徐々に退いてゆく。
そののちもう一度戻ってきて、わずかの間襲いかかることもあるが、それはまだ邪悪の根を絶やさねばならないからだ。
苦しみの頂点は、神の意志への帰依となる。」
(ヒルティ 幸福論 第三部 岩波文庫版、草間・大和訳の p.139 )
---
たまたま手に取った「幸福論」。
どうしたことか、上のページにしおりが挟まれていて、それで冒頭の文章が目に入った。
苦しみは、「徐々に退いてゆく」。いきなり、ではない。
なぜか。
「まだ邪悪の根を絶やさねばならないから」、まさにその通りと思う。
「戦後の混乱期」のようなものだ。
ただ、その「頂点」、それは、確かなところ「神の意志への帰依」にあるとは思う。
この事を繰り返し確認したく、あえて筆を執った。
上記引用は、漢字の綴り方、句読点、改行に小変更を施したことを付記する。
苦しみがひとたび頂点を越えてしまうと、それは一挙に消え去るのではなく、徐々に退いてゆく。
そののちもう一度戻ってきて、わずかの間襲いかかることもあるが、それはまだ邪悪の根を絶やさねばならないからだ。
苦しみの頂点は、神の意志への帰依となる。」
(ヒルティ 幸福論 第三部 岩波文庫版、草間・大和訳の p.139 )
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たまたま手に取った「幸福論」。
どうしたことか、上のページにしおりが挟まれていて、それで冒頭の文章が目に入った。
苦しみは、「徐々に退いてゆく」。いきなり、ではない。
なぜか。
「まだ邪悪の根を絶やさねばならないから」、まさにその通りと思う。
「戦後の混乱期」のようなものだ。
ただ、その「頂点」、それは、確かなところ「神の意志への帰依」にあるとは思う。
この事を繰り返し確認したく、あえて筆を執った。
上記引用は、漢字の綴り方、句読点、改行に小変更を施したことを付記する。
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明日のことを思い煩うな
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:33-34)
---
「ある事柄」を書こうと、巷間「共観福音書」と呼ばれる3つの書物を、やはり順番から開きはじめる。
マタイ伝には、「その事柄」が記されていないな、そう思いつつ斜め読みしていって、ふと冒頭の聖句、「山上の説教」からの一節を思い出して、めくり直す。
「神の国とその義と」が「まず第一に」で据わるならば、確かなところ、「あすのための心配は無用」それも全く不要、そう思える。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:33-34)
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「ある事柄」を書こうと、巷間「共観福音書」と呼ばれる3つの書物を、やはり順番から開きはじめる。
マタイ伝には、「その事柄」が記されていないな、そう思いつつ斜め読みしていって、ふと冒頭の聖句、「山上の説教」からの一節を思い出して、めくり直す。
「神の国とその義と」が「まず第一に」で据わるならば、確かなところ、「あすのための心配は無用」それも全く不要、そう思える。
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