パンのことなどではない

 「イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」(マタイ16:8-11)

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 引き続きマタイ伝の続き。
 食物としての「パン」(マテリアル)なんていうのは、イエスにとってどうでもよかった。
 「そんなもの」は、結果論で与えられよう。
 今、ちょうどドラゴンズ優勝のかかった一戦をラジオで聴いていて、するとウッズの満塁ホームランに、あの落合さんが涙を隠さず泣いているのだそうだ。
 今季、落合さんは高度な計算で、しのぎ続けた。
 そう、「優勝」というのは、きちんとやっていれば、「結果論」だ。

 さて「パン種」。
 サドカイ人のそれは、現世利益。
 パリサイ人のそれは、教条支配。
 どちらもイエスが与えんとする「いのち」からは、掛け離れたものだ。
 クズを集めた「かご」は、山盛りだったのだ、イエスがどの程度のパンをこさえたか(五千人か三千人か)、そのこと自体は全くもって本質的ではない。
(群衆は、ほんとに食って食って、食いきれなかったのだろうとも思う。)

 それだけのお方(神)が、実に「マテリアル」などではなく、(結果論としての)「ライフ」を与えに来られた。
 そしてそのために、死す。
 書き進めるにつけ、「パンのことなどではない」、そうつくづく思う。
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