のがれる道

 「また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。」(1コリント10:10-14口語訳)

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 1コリント10:13を単独で覚えている人は、とても多かろうと思う。
 ところで私は以前からずっと疑問だった。
 この13節と14節とが、「それだから」という接続詞でつながっている、これはなぜなのか、と。
 今は、一応の仮説を出している。
 「神」が備えた「のがれる道」、これは必ずある。
 すると、「偶像」に頼るなぞという「逆のこと」、これはしてはなるまい、と。

 そしてほんじつ冒頭の聖句を開くと、10節あたりからまとまりを持っているようにすら思えた。
(1) つぶやくな。それは滅びの道だ。
(2) 神は耐えられない試練はお与えにならないし、「のがれる道」というものすら備えてくださる(だからこそ、「つぶやくな」)。
(3) その「のがれる道」は「神」が与えてくださるものだから、「偶像」になど頼るな。

 こう把握したとき、随分と楽になったものだ。
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