『偶像礼拝』、その危険性について

(1)
 「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」(1ヨハネ5:21)

(2)
 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)

(3)
 「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。」(黙2:20)

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 神は十戒にて、偶像礼拝を戒める(出20:3)。ひねりを入れて、(1)をあえて選択してみた。

 ところで人はひとりで生きることのできない存在だ。
 パートナーとして神が「女」がお造りになった(創2:18)、そのことも何となく分かるような気がする。
 さて、ひとりで生きること叶わぬ「人」は、イエスの勧め(2)もあって、「集合」する。

 しかし気付くと「集合した人々」から「イゼベル」が台頭し、「人々」はその「イゼベル」への偶像礼拝をもっぱら行う存在に堕する(3)。

 「偶像礼拝構造」。
 この危険性を、思う。
 しかし、この危険性を回避することもまた、至難の業のように思う。
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戦後の混乱期

 「さらにまた、次のような経験も一般によくなされることである。
 苦しみがひとたび頂点を越えてしまうと、それは一挙に消え去るのではなく、徐々に退いてゆく。
 そののちもう一度戻ってきて、わずかの間襲いかかることもあるが、それはまだ邪悪の根を絶やさねばならないからだ。
 苦しみの頂点は、神の意志への帰依となる。」

(ヒルティ 幸福論 第三部 岩波文庫版、草間・大和訳の p.139 )

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 たまたま手に取った「幸福論」。
 どうしたことか、上のページにしおりが挟まれていて、それで冒頭の文章が目に入った。

 苦しみは、「徐々に退いてゆく」。いきなり、ではない。
 なぜか。
 「まだ邪悪の根を絶やさねばならないから」、まさにその通りと思う。
 「戦後の混乱期」のようなものだ。
 ただ、その「頂点」、それは、確かなところ「神の意志への帰依」にあるとは思う。

 この事を繰り返し確認したく、あえて筆を執った。
 上記引用は、漢字の綴り方、句読点、改行に小変更を施したことを付記する。
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明日のことを思い煩うな

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:33-34)

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 「ある事柄」を書こうと、巷間「共観福音書」と呼ばれる3つの書物を、やはり順番から開きはじめる。
 マタイ伝には、「その事柄」が記されていないな、そう思いつつ斜め読みしていって、ふと冒頭の聖句、「山上の説教」からの一節を思い出して、めくり直す。

 「神の国とその義と」が「まず第一に」で据わるならば、確かなところ、「あすのための心配は無用」それも全く不要、そう思える。
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詩篇のなぐさめ

 「私は言った。
 「主よ、あわれんでください。
 私のたましいをいやしてください。
 私はあなたに罪を犯したからです。」(詩41:4)

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 家路について、はらぱらと詩篇をめくる。
 上の聖句が目に付いた。
 「私はあなたに罪を犯したから」。
 理屈づけはさほどないのだが、いつもながら大いになぐさめを受ける。
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備えあれば憂いなし

 「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
……
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:1-13)

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 賢い娘たちは、予め「油」を用意していた。
 彼女らが愚かしい娘たちに対して「冷たい」であるとか、さらに「油」とは何を例えているかとか、そういったことはどうでもよろしい。

 イエスの数ある例え話、それらのうちの一つのメインテーマは「備え」の重要性についてだと思う(一例としてマタイ24:35-42,同24:43-44、同24:45-51)。
 「備えあれば憂いなし」よりも、もっと先鋭的に感じる、イエスが繰り出す例え話は。
 「目をさましていなさい」。
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怒る神

 「神は正しい審判者、日々、怒る神。」(詩7:11)

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 神の怒りは…なにゆえなのだろうか……。
 そう思いつつ、ここばかり眺めていたお昼休み。
 きっとそれは、「正しい審判者」だからという以上でも以下でもなかろう。

 ロマ書を我田引水するほどの気力もないほど、眠いです。
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パンのことなどではない

 「イエスはそれに気づいて言われた。「あなたがた、信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。
 わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」(マタイ16:8-11)

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 引き続きマタイ伝の続き。
 食物としての「パン」(マテリアル)なんていうのは、イエスにとってどうでもよかった。
 「そんなもの」は、結果論で与えられよう。
 今、ちょうどドラゴンズ優勝のかかった一戦をラジオで聴いていて、するとウッズの満塁ホームランに、あの落合さんが涙を隠さず泣いているのだそうだ。
 今季、落合さんは高度な計算で、しのぎ続けた。
 そう、「優勝」というのは、きちんとやっていれば、「結果論」だ。

 さて「パン種」。
 サドカイ人のそれは、現世利益。
 パリサイ人のそれは、教条支配。
 どちらもイエスが与えんとする「いのち」からは、掛け離れたものだ。
 クズを集めた「かご」は、山盛りだったのだ、イエスがどの程度のパンをこさえたか(五千人か三千人か)、そのこと自体は全くもって本質的ではない。
(群衆は、ほんとに食って食って、食いきれなかったのだろうとも思う。)

 それだけのお方(神)が、実に「マテリアル」などではなく、(結果論としての)「ライフ」を与えに来られた。
 そしてそのために、死す。
 書き進めるにつけ、「パンのことなどではない」、そうつくづく思う。
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唯一の味方を失ったときのイエス

 「それから、ヨハネの弟子たちがやって来て、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。
  イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた。すると、群衆がそれと聞いて、町々から、歩いてイエスのあとを追った。
 ……。
 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 ……。
 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」(マタイ14:12-23)

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 さくじつの続き。
 バステスマのヨハネという「唯一の味方」を失ったイエス。
 よほど悲しかったのだと、今の私は思っている。
 肉となられた神、イエス。
 やはり肉なのだから、痛いと思うし、悲しみを感じる(だからこその福音書だと思う)。

 「自分だけで寂しい所に行」こうが、「群衆がそれと聞いて、……追っ」ってくる。
 ここで、彼らを癒し五千人の給食という哀れみのわざまでなさるイエス、今の私はもっぱらここに注目している。
 で、「群衆」は満腹すればいい存在なので(過日書いた。リンク省略)、「群衆を帰した」。
 あの「群衆」が、実にあっさり引き下がること、これは前々から不思議だった。
 が、ヨハネ伝での「五千人の給食記事」と照らし合わせて、ああそういうことか、と、そこは思い至った。

 そして、やっと一人にならせてもらって、「祈る」。
 どれほど祈ったか。
 「夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた」とあるように、相当長い祈りだったはずだ。
 何について祈ったか、ここは解釈を許してくれない。
 ただ、バステスマのヨハネが、「ああいうこと」になると聞くのだから、まあ、よほど一人きりで祈りたかったのだろう、とは思う。
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いたいけな娘

 「ところが、娘は母親にそそのかされて、こう言った。「今ここに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて私に下さい。」(マタイ14:8)

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 「娘」がどれほどの年頃なのか、それは聖書は伝えていない。
 が、この「娘」は、ぞっとすることを言う。
 「首を盆に載せて私に下さい」。
 自分で言っていることの意味が分かっていたのだろうか…。
 私は何度もここを眺め、そして、「いたいけ」ということばが思い浮かんだものだ。

 「母親にそそのかされて」。
 この「母親」と「娘」との関係性について、これも聖書は解釈を「許可」しないように感ずる。
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色恋沙汰と愛

 「ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
 ヤコブはラケルを愛していた。」(創29:16-18)

 「女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」(1コリント11:6)

 「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。……」(創1:27-28)

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 レアとラケルのすがたかたちを見比べて、その上で「ラケルを愛していた」…。
 要するに、「色恋沙汰」の類以上のものではない。
 なんだその「ラケルを愛していた」という「表現」は…、けさかた聖書を開いて、そう思った。
 単に「ラケルが『好き』だった」というだけのこと、それは、「ヤコブ物語」の通底に流れている(そのこと自体に善悪はないとも思う)。
 「愛」、ねぇ……。
 繰り言だが、単なる「色恋沙汰」だ。

 ところで、映画「パッション」。
 先月9月の「総決算」時に、このDVDは処分したのだが、1つ象徴的なシーンがあるのを思い起こす。
 女性はみな「かぶり物」をしているわけだが、イエスの痛々しさにたまらなくなった女性(マグダラのマリヤだったか?)が、自身の「かぶり物」を外して、その布で血まみれのイエスの体を拭くシーン。
 この「かぶり物を外す」瞬間、彼女の長い髪がはらりと開けて美しいうなじ、その肌色が顕わになる…
 そう、「あの凄惨な映画」の中に「色気なんてもの」を見いだしてしまう。
 もしこのシーンがなかったならば、「あの映画」で「女性はみなかぶり物をしていた」こと自体を気付かずに見終わったろう。それほど「突出していた」シーンだ。
(あれは意図あってのことなのだろうか。少し前、あの映画の監督さんの新聞報道に接したが。)
 大河ドラマの類でも、「和式かぶり物」をしている女性は多く登場する。
 あまりによく見かけるので、当時描かれた絵にはそのような女性がたくさん描かれていた、つまり実際のところそうだったのだろうと、これはまあ、憶測の域を出ない。

 実に人は、性欲を有している。
 「生めよ。ふえよ」とあるとおりに。
 神からのプレゼントとさえ、言っていいほどだ。
 「この性欲」故に、人類はここまで続いているのであって、「私」もこうして「書く行為をする」のだから、やはりプレゼントだ。
 ところが、やはりどこまでいっても「善悪の木の実」(創3:6)のゆえ、裸を恥ずかしいと思う存在になるし、異性を見ればもっぱら顔立ちで「愛する」。

 かくして新約の頃には「かぶり物」という知恵?が登場する。
 色香の類を隠すためのものと思っている。
 そう、公の場では色香を隠すのが、ほんとうではあるまいか。
(それは男性にしても同様だろう)。
 そして、神からのプレゼント「生めよ。ふえよ」が、「援助交際掲示板」に堕する。
 痴漢事件報道も、後を絶たない。
 男性である私から言うと、「痴漢してくれ」と哀願する服装や化粧、そうとまで思っている。
(わざと誇張して書いている。)
 男性の知人は、電車に乗るときは両手で頭上の鉄パイプをわしづかみするのだそうだ。もっぱら「あらぬ疑いを掛けられないため」と伺い、それは驚いた。

 ほんじつは、タイトルに挙げた「愛」の方は、書けずじまいだ。
 私も、「ほんとうの愛」が分からないから。
 「分からないことが分かる」こと、それと、「色恋沙汰」とは全く異なる、この2点の確認をすれば、まあよかろう。
(「将来書くであろう記事」への布石でもある。)
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