『問題』の自覚

 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
 そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」(マルコ1:1-5)

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 昼休み、ぼんやりと思いついた。
 「『問題』のない人など、およそいないだろうに」。
 そう思いつくや、冒頭の聖句が思い出された。

 「ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して」。
 そう、誰も彼も、多かれ少なかれ種々雑多な「問題」を抱えており、その「問題」の解決を図りたいと芯から願っている。
 その証左に「ユダヤ全国の人々」が一人の元に集まってくるではないか。

 そして、イザヤは預言した。
 「わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう」。
 実に、神であられたイエスが来られたのである。
 眠いので、この辺で。
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