詩篇のなぐさめ

 「記念のためのダビデの賛歌

 主よ。あなたの大きな怒りで
 私を責めないでください。
 あなたの激しい憤りで
 私を懲らしめないでください。
 あなたの矢が私の中に突き刺さり、
 あなたの手が私の上に激しく下って来ました。
 あなたの憤りのため、
 私の肉には完全なところがなく、
 私の罪のため
 私の骨には健全なところがありません。
 私の咎が、私の頭を越え、
 重荷のように、私には重すぎるからです。
 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。
 それは私の愚かしさのためです。
 私はかがみ、深くうなだれ、
 一日中、嘆いて歩いています。
 私の腰はやけどでおおい尽くされ、
 私の肉には完全なところがありません。
 私はしびれ、砕き尽くされ、
 心の乱れのためにうめいています。

 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。」
(詩38枕-9)

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 さくじつ晩は、ひとりしずかに詩篇をひもとく。
 ふと冒頭の38篇に目が留まった。
 何度も何度も、繰り返し眺める。
 これにまさるなぐさめは、ないと思う。

 新改訳聖書第二版をお持ちのお方は、手元のその聖書と冒頭の引用をご比較されたい。
 すると、「意図的に」9節を冒頭に入れていることをお分かり頂けると思う。
 「明と暗」に分けるとするなら、この38篇は、この9節と15節だけが「明」、ほかは「暗」、ひたすら暗く、そして重い。
 その重みの中に「9節」があるから、「明」がいっそうきらめく。
 写真でも絵画でもいいと思うが、その類の「美術(?)」に多い「表現手法(?)」のように思える。

 ちなみに詩篇には、「明一色」の詩も多数ある(例えば100篇)。
 これはこれでよいとも思う。
 だが、さくばんは「38篇の気分」、いいかえれば「ほぼ、暗」が欲しかった。
 さまざまな立場の、さまざまな情況にいる人々を、あるときはなぐさめ、あるときは励まし、あるときは叱咤する…。
 もし受け入れるならば、150の詩を集めたこの詩篇は、そのような「常備薬」として備えておきたい。
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