fighting myself

 「ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。
  ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」(創32:25-26新共同訳 -新改訳、口語訳では24-25)

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 昼休みは、静かな空間で新約聖書(詩篇付)を開く。
 もっぱら詩篇ばかり、眺めている。
 眺めていると、ふと、上の聖書箇所を思いついた。

 「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」。
 いったい、「何者」だろう?
 そして、彼は「ヤコブに勝てない」、そう思ったという。
 ヤコブに勝ち目がないとみた彼が、しかし、このヤコブに「致命傷」を食らわす。

 ヤコブにとって、それは長い夜だったことだろう。

 家に帰って聖書を開き、すると、タイトルに記した英文を思い起こした。
 デビッド・シルビアンというイギリスのボーカリストが、好んで用いていた語句だ。
 私はいったい、「何」と「こんなにまで戦っている」のだろう……、常々感じていることだ。
 2つの説に絞られてきた。が、どちらも収まりがよくない。
 また、「解法」があるとも、思っていない。
 ただ確かなことは、今しばらく、私は「長い夜」を過ごすのだろうということで、このことは受け入れることができる。

 ちなみに、ヤコブの「この話」は「前後」があるのだが、今日は敢えて「ここだけを」取り出してみたことをお断りしておく。
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