人々

 「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい」。 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
……
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネ伝6:11-15,飛んで26)

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 「ヨハネ伝6章」。
 この tetm を、私は終生忘れないだろう。
 99回読んで、「ヒステリックなイエス像」を頭の中に描いていた箇所だ。
 100回目に、ひっくり返った。
 このこと自体については、手を変え品を買え、何度も書いてきた。

 今日の聖書箇所は、いわゆる「五千人の給食」の箇所。
 四福音書のいずれにも取り上げられている。
 だが、その取り上げ方について、ヨハネ伝は他のそれらとは相当異なるように思える。
 特に、15節「イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、……」に接したときは、ある種の「新鮮さ」すら覚えた。
 そう、「人々」とはまさしくそういう存在…。
 そしてとどめ、26節…。
 今日書きたいことは、やはり昔日書いたように覚えているので、ほんじつはは止めておこう。

 この聖書箇所は、「取り上げるタイミング」を計っていたことを付記する。
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