イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスは律法を成就するために来られた
「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:16-20)
---
イエスは、律法を廃棄するどころか、成就するためにこそ来たのだと言っている。
また、言うことは言うが行なわないパリサイ人のようにではなく、実際に律法を行う必要があることも、イエスはここで言っている。
上の「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とは律法であり、この場合は自分ひとりの行ないだけでは完結せず、周囲の人によい影響を与えることまで課されており、行なうことのきわめて困難な律法といえる。
そのような律法群を、果たしてすべて守り通せるのだろうか。
守れるか、といったら、ただの一つも守り通すことができない。
私たちの肉が、神の律法に逆らうのである。
しかし律法は成就されるものなのである。それも、罪深い私たちひとりひとりの内に成就される。
それは、復活のイエスとの出会いによってであり、いくら罪深くともその罪は赦され、どれだけ不義な者であっても義と認められる。
そのためには、まずこの律法を守り行うのである。律法は義への飢え乾きを起こさせ、イエスの義へと導くからある。イエスの義とは、すなわち十字架と復活である。
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[一版]2015年12月 6日
[四版]2024年 7月20日
イエス様の平安がありますように!

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わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」(マタイ5:16-20)
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イエスは、律法を廃棄するどころか、成就するためにこそ来たのだと言っている。
また、言うことは言うが行なわないパリサイ人のようにではなく、実際に律法を行う必要があることも、イエスはここで言っている。
上の「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」とは律法であり、この場合は自分ひとりの行ないだけでは完結せず、周囲の人によい影響を与えることまで課されており、行なうことのきわめて困難な律法といえる。
そのような律法群を、果たしてすべて守り通せるのだろうか。
守れるか、といったら、ただの一つも守り通すことができない。
私たちの肉が、神の律法に逆らうのである。
しかし律法は成就されるものなのである。それも、罪深い私たちひとりひとりの内に成就される。
それは、復活のイエスとの出会いによってであり、いくら罪深くともその罪は赦され、どれだけ不義な者であっても義と認められる。
そのためには、まずこの律法を守り行うのである。律法は義への飢え乾きを起こさせ、イエスの義へと導くからある。イエスの義とは、すなわち十字架と復活である。
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[一版]2015年12月 6日
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